1930年代:時事的著作
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「井上紅梅」の記事における「1930年代:時事的著作」の解説
1929年(昭和4年)の時点で、紅梅の寄稿先のほとんどは日本国内の雑誌になっていた。1930年(昭和5年)、紅梅は50歳の折に日本に帰国したとみられている(1932年(昭和7年)時点では東京の牛込(現在の新宿区神楽坂六丁目)に居住している)。 当時の紅梅は中国新文学に関心の中心を置いていたが、日本国内では中国新文学に対する関心は低く、魯迅も一般的にはまだ「無名」であった。魯迅の作品の翻訳をいくつかの雑誌社に持ち込んだが採用に至らず、結局、この時期の紅梅は従来の「シナ通」的な中国風俗研究の著述を多く残すこととなった。東亜研究会の『東亜研究講座』にたびたび寄稿したほか、同仁会(日中友好医療団体)の『同仁』、東亜経済調査局の『東亜』にも中国事情通として参加した。また、梅原北明の『グロテスク』など、当時流行していたエログロ雑誌にも寄稿している。 1931年に満州事変、1932年に上海事変が勃発するという中国情勢緊迫化の中で、「上海事情」に通じた紅梅は日本メディアの特派員としての役割を担って上海に渡り、上海情勢に関するルポルタージュや、当時の上海文壇の状況についての記事を送った。この時期の紅梅は、大手出版社である改造社と密接な関係を築き、雑誌『文芸』の編集にも関与したほか、ジャーナリストとして脚光を浴びることとなった。 1932年11月に、改造社より『魯迅全集』を刊行した(「全集」とあるが、魯迅の26の作品を翻訳して集めた短編小説集)。日本では初の本格的な翻訳集で、売れ行きは上々であった模様である。ただし、魯迅の反応は芳しくなかった(後述)。 1930年代後半の紅梅は、本郷菊坂の長屋に暮らし、かなりの困窮に陥っていた模様であるが、魯迅死去(1936年)を受けて企画された『大魯迅全集』翻訳陣への参画(1937年)、陳賡雅のルポを武田泰淳と共訳した『支那辺疆視察記』の出版(1937年)、『中華万華鏡』の出版を行い(1938年)、新潮文庫収録に伴う魯迅『阿Q正伝』の改訳も行った。1939年(昭和14年)には創元社の『アジア問題講座』制作に参加した(紅梅の担当は文学でも時事でもなく、風俗としての「阿片と煙草」であった)。1939年(昭和14年)には一般雑誌への投稿が見られなくなった。
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