1930年代:時事的著作とは? わかりやすく解説

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1930年代:時事的著作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:24 UTC 版)

井上紅梅」の記事における「1930年代:時事的著作」の解説

1929年昭和4年)の時点で、紅梅寄稿先のほとんどは日本国内雑誌になっていた。1930年昭和5年)、紅梅50歳の折に日本に帰国したとみられている(1932年昭和7年時点では東京牛込現在の新宿区神楽坂六丁目)に居住している)。 当時紅梅中国新文学関心中心置いていたが、日本国内では中国新文学対す関心低く魯迅一般的にはまだ「無名であった魯迅作品翻訳いくつかの雑誌社持ち込んだ採用至らず結局、この時期紅梅従来の「シナ通」的な中国風俗研究著述多く残すこととなった東亜研究会の『東亜研究講座』にたびたび寄稿したほか、同仁会(日中友好医療団体)の『同仁』、東亜経済調査局の『東亜』にも中国事情通として参加したまた、梅原北明の『グロテスク』など、当時流行していたエログロ雑誌にも寄稿している。 1931年満州事変1932年上海事変勃発するという中国情勢緊迫化の中で、「上海事情」に通じた紅梅日本メディア特派員としての役割担って上海渡り上海情勢に関するルポルタージュや、当時の上文壇状況についての記事送った。この時期紅梅は、大手出版社である改造社密接な関係を築き雑誌文芸』の編集にも関与したほか、ジャーナリストとして脚光を浴びることとなった1932年11月に、改造社より『魯迅全集』を刊行した(「全集」とあるが、魯迅26作品翻訳して集めた短編小説集)。日本では初の本格的な翻訳集で、売れ行き上々であった模様である。ただし、魯迅反応芳しくなかった後述)。 1930年代後半紅梅は、本郷菊坂長屋暮らしかなりの困窮に陥っていた模様であるが、魯迅死去1936年)を受けて企画された『大魯迅全集翻訳陣への参画1937年)、陳賡雅のルポ武田泰淳共訳した支那辺疆視察記』の出版1937年)、『中華万華鏡』の出版行い1938年)、新潮文庫収録に伴う魯迅阿Q正伝』の改訳行った1939年昭和14年)には創元社の『アジア問題講座制作参加した紅梅担当文学でも時事でもなく、風俗としての阿片煙草であった)。1939年昭和14年)には一般雑誌への投稿見られなくなった

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