梅原北明
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梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年1月15日 - 1946年4月5日)は、日本の作家・編集者。本名は梅原貞康。昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する出版人である。宗教研究家の梅原正紀は息子。別名・烏山朝太郎、談奇館主人、大塚倭堂、吾妻大陸ほか多数。
注釈
- ^ 北明の長男・梅原正紀は「梅原北明 その足跡」[2]で「祖父は富山藩の勘定奉行であったという」と記しているものの、「富山藩士由緒書」[3]によれば梅原家は代々、富山藩で蒔絵師を務めていたことがわかる。北明の祖父をめぐっては野坂昭如の『好色の魂』でも「前田藩勘定奉行」だったとされており、梅原家もそういう役職にふさわしい富家であったように描かれているものの、「富山藩士由緒書」で裏付けられるのは代々、塗師方で蒔絵師を務める拾人扶持の下級武士に過ぎなかったという事実。なお、「明治2年士族分限帳」[4]によれば、明治2年当時の梅原家当主・平作(諱は「貞一」)の身分は「一等士族直衛」。
- ^ 奥付けを見ると1925年(大正14年)10月5日に初版印刷されているが、10月10日に発売禁止となり、11月25日に訂正初版発行となっている。
- ^ 「病名は発疹チフスで、東京へ通う列車の中でシラミを経由して伝染したのである。ダンディーな身だしなみのいい男として知られた北明が、そうした病気で倒れたのは運命の皮肉であった。高熱が一週間も続き、死ぬ前日には、脳症を起こして意識は混濁していたが、ボクが朝刊を持って病室に入っていくと、父はつと手を伸ばし、新間をとりあげ、手でかざして読もうとした。しかし、なんとしても新聞を手でかざすことができず、新聞は、父の顔にバサリと落ちた。活字とともに生きてきた男の反射的動作の中に、まだ自分は生きて仕事をしなければならないのだという執念がこもっていた。しかし、その時はおそかった。北明が息をひきとったのは昭和二十一年四月五日のことである」梅原正紀『近代奇人伝』大陸書房、1978年、252頁。
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