明治中期から昭和初期にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:58 UTC 版)
「性教育」の記事における「明治中期から昭和初期にかけて」の解説
第二次世界大戦前の性教育学者たちの言説には、明治以前の性的卓越性という男らしさの尺度を禁じつつ、男としてのアイデンティティを保持するために「学生時代は禁欲し、立身し然るべき時期に結婚して一家を成す」という、新しい「男性としてあるべき姿」像が含まれていた。 1890年(明治23年)頃から学生間での風紀の乱れと花柳病の蔓延がメディアを通じて社会問題となり、1900年代頃から学生の性の扱いに打つ手を持たない教育界を医学界がリードする形で、医学者と教育者との議論によって性教育が形成されていった。初期の性教育の使命は、若者の自然で健全な性欲を衛生的かつ倫理的に適った方向に誘導する、というものであり、議論のポイントは「手淫の害」と「花柳病の害」の予防法だった。しかし、科学に基づいた性知識の普及が学生の性的悪行を刺激し手助けする、という批判から、花柳病の具体的な予防法は教授せずに、若年の性交や恋愛は危険であり学生の間は学業に専念し禁欲せよ、という強制禁欲主義の教育がなされるようになった。 山本宣治は大正から昭和初期にかけて性教育についての啓蒙活動を行い、1922年(大正11年)に来日した産児制限で著名なマーガレット・サンガーの講演の通訳を務めるなどした。星野鉄男は昭和初期に『性教育に就いて』(1927年)などを著し、性教育は単に性欲についての知識を与える性欲教育ではなく、「社会を構成する男と女の全部」に必要な、今で言うところの生涯教育であると主張した。羽太鋭治は大正期においてドイツの性科学を下敷きに性教育についての著書をいくつか書き、昭和初期に大衆向けのハウツー本を多数出版した。太田武夫(太田典礼)は避妊リングの考案や1936年(昭和11年)に雑誌『性科学研究』を創刊するなど、性の研究を通じて社会問題に取り組んだ。梅原北明はエログロの先駆となる雑誌『グロテスク』を1928年(昭和3年)に創刊するなどした。
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