明治三十五年の伝道旅行
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その後、中田とカウマンは楯岡、谷地(山形県西村山郡河北町)、新庄、金山(山形県最上郡金山町)を経て、二日後に院内峠(秋田県院内雄勝峠)を大雨の中徒歩で超え院内町(現・秋田県湯沢市)に行った。その後、湯沢(現・秋田県湯沢市)、横手(現・秋田県横手市)、黒沢尻、盛岡を旅行した。 1903年(明治36年)8月には、大宮(さいたま市大宮区)で修養会を開き、カウマン、キルボルンの他、河辺貞吉、武田駒吉、秋山由五郎、及び中田の実兄中田久吉を招いた。1903年10月には、名古屋、近江八幡、京都、大阪、岡山、松江に巡回旅行をして、1903年12月には、ローランズ夫妻と共に、鹿児島県鹿屋に行を訪問する。帰路は飫肥(現・宮崎県日南市)、宮崎市を通り、そこから海路を使い神戸市そして、実兄久吉と母千代がいる名古屋に寄港し、東京に戻った。 1904年(明治37年)7月頃中田は肺膿瘍を患い、神奈川県茅ヶ崎や葉山の高橋是清の別邸で静養することになった。4月頃には回復し、病気療養の体験談を「快復御礼」という文章にして、機関紙「焔の舌」に発表した。
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