明治三陸地震津波
別名:明治三陸大津波、明治三陸沖地震津波
岩手県の三陸沖で明治29年(1896年)に発生した、巨大地震(明治三陸地震)により引き起こされた大津波。
1896年6月15日、マグニチュード8.2とも8.5とも言われる大規模な地震によって生み出された津波は、高さ38メートルを記録し三陸沖を襲った。震源の規模は巨大なものであったが、震度としてはせいぜい震度4程度に留まり、沿岸の人々に強い危機感を抱かせなかったのではと言われている。この津波によって22000人を超える犠牲者が出た。
三陸沖では昭和8年にも大規模な地震が発生しており、明治三陸地震に対して「昭和三陸地震」と呼ばれる。
津波被害としては明治三陸地震津波が国内史上最悪とされてきたが、2011年3月11日に三陸沖を震源として発生した「東北地方太平洋沖地震」および併発した津波による犠牲者(死者・行方不明者)は、発生後2週間を過ぎた時点で明治三陸地震津波を超える被害を呈するに至った。
関連サイト:
我が国の津波・地震による被害 - 国土交通省四国地方整備局
明治三陸大津波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 07:55 UTC 版)
大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7分に記録されている。到達した範囲は北海道から宮城県にわたった。 遡上高は、北海道庁幌泉郡(現北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬では海抜4m、青森県三戸郡八戸町近辺(現在の八戸市内丸あたり)で3m、宮城県牡鹿郡女川村(現女川町女川浜女川)で3.1mであった。岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現宮古市田老地区)で14.6m、同郡船越村(現下閉伊郡山田町船越)で10.5m、同郡重茂村(現宮古市重茂)で18.9m、上閉伊郡釜石町(現釜石市釜石)で8.2m、気仙郡吉浜村(旧気仙郡三陸町吉浜、現大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、同郡綾里村(旧気仙郡三陸町綾里、現大船渡市三陸町綾里)で21.9mと、軒並み10mを超える到達高度を記録している。 特に綾里湾の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日本の本州で観測された津波では当時もっとも高い遡上高である海抜38.2mを記録した。 小説家・吉村昭は、ルポルタージュ『三陸海岸大津波』のために、この災害に関する証言収集の一環として、1970年(昭和45年)に岩手県田野畑村羅賀を訪問した。津波発生時に10歳であった中村丹蔵(インタビュー当時85歳)から海抜50m近くあった自宅にすごい勢いで津波が浸水してきたという証言を得たと記しているが、海洋学者・三好寿は「件の老人の家は、国土地理院の地図によると海抜25m程度に位置し、50mという値は『吉村と老人の会話の食い違い』から生じた誤認であった」との見解を示している文春文庫版p25-27、p117によれば、自宅を現地調査のうえで執筆しており、自宅で『40mぐらいはあるでしょうか』という筆者の問いに、村長(早野仙平)が『いや、50mはあるでしょう』と答えている。 羅賀には、海岸から360m、標高25-28mのところに津波石がある。明治三陸地震津波で打ち上げられ、高さ2m以上、重さは約20tあるという。遡上高はもっと高かった。東日本大震災での羅賀地区での遡上高は27.8mだった。
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