明治三陸大津波とは? わかりやすく解説

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明治三陸大津波

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 07:55 UTC 版)

明治三陸地震」の記事における「明治三陸大津波」の解説

大津波第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7分に記録されている。到達した範囲北海道から宮城県わたった遡上高は、北海道庁幌泉郡(現北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬では海抜4m青森県三戸郡八戸町近辺現在の八戸市内丸あたり)で3m宮城県牡鹿郡女川村(現女川町女川浜女川)で3.1mであった岩手県三陸海岸では下閉伊郡田老村(現宮古市田老地区)で14.6m、同郡船越村現下閉伊郡山田町船越)で10.5m、同郡重茂村(現宮古市重茂)で18.9m、上閉伊郡釜石町(現釜石市釜石)で8.2m、気仙郡吉浜村(旧気仙郡三陸町吉浜、現大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、同郡綾里(旧気仙郡三陸町綾里、現大船渡市三陸町綾里)で21.9mと、軒並み10mを超える到達高度を記録している。 特に綾里湾の奥では入り組んだ谷状の部分遡上して、日本本州観測され津波では当時もっとも高い遡上高である海抜38.2mを記録した小説家吉村昭は、ルポルタージュ三陸海岸大津波』のために、この災害に関する証言収集一環として1970年昭和45年)に岩手県田野畑村羅賀訪問した津波発生時10歳であった中村丹蔵インタビュー当時85歳)から海抜50m近くあった自宅にすごい勢いで津波浸水してきたという証言得た記しているが、海洋学者三好寿は「件の老人の家は、国土地理院地図によると海抜25m程度位置し、50mという値は『吉村老人会話食い違い』から生じた誤認であった」との見解示している文春文庫版p25-27、p117によれば自宅現地調査のうえで執筆しており、自宅で『40mぐらいはあるでしょうか』という筆者問いに、村長早野仙平)が『いや、50mはあるでしょう』と答えている。 羅賀には、海岸から360m標高25-28mのところに津波石がある。明治三陸地震津波打ち上げられ、高さ2m以上、重さは約20tあるという。遡上高はもっと高かった東日本大震災での羅賀地区での遡上高は27.8mだった。

※この「明治三陸大津波」の解説は、「明治三陸地震」の解説の一部です。
「明治三陸大津波」を含む「明治三陸地震」の記事については、「明治三陸地震」の概要を参照ください。

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