明治中期から大正期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:54 UTC 版)
明治期も半ばに入ると、より安価な外国製鋼材の流入によってたたら業者たちは徐々に経営が圧迫され始めていたが、粘性に乏しい輸入鉄がおもに建築材として用いられていた事に目をつけ、粘りのあるたたら鉄を陸海軍に対して売り込むことを模索していた。一方で、創成期の日本陸海軍においては兵器用鋼材を輸入に頼る現状を打破しようと独自に製鋼を行うことを目標に掲げ、海外に技術者を派遣して製鋼技術の習得に努めた。 そのような中で海軍は明治15年(1882年)、東京築地の海軍兵器局内に建設された製鋼所における坩堝鋼の製造に際し、試験的にたたら製の錬鉄と鋼を使用したが、その約1キログラム (kg) 程度の小塊に砕かれた鋼が「玉鋼」の名称で呼ばれた。その翌年には海軍関係者が島根県のたたら業者を現地視察し、改めてその製品や生産量について調査している。たたら鉄の品質の良さを認識した海軍省は、明治10年代末から20年代にかけて度々たたら製品を入荷し、管轄の各製鋼施設において原材料として使用するようになる。一方でたたら業者たちは陸軍に対しても鉄材を納入しており、赤字経営が続く中、徐々に軍需産業との結び付きを強めていった。ただし、この時期は陸海軍ともに坩堝製鋼や3トン (t) 級の小型酸性平炉による操業が主流であり、いまだ小規模操業の域を出ていなかった。 明治28年(1895年)に日清戦争が終結した後、それによって得た多額の賠償金をもとに大幅な軍備拡張予算が通過すると、海軍は鉄鋼材の大規模な生産に乗り出し始める。明治30年(1897年)、海軍は呉兵器製造所内に12 tの大型酸性平炉を設置するが、たたら鉄の含有不純物、特にリンの少なさに注目し、本格的に兵器用特殊鋼の材料として購入を開始した。その際、選別された炭素量0.8 - 1.8%の鋼の内で最上級の物を「頃鋼」、それよりやや炭素量の低い物を「玉鋼」と名付けた。 当時の冶金学者である俵国一は著書の中で次のような分析結果を示している。 伯耆国砥波たたら生産鋼の分析結果 (単位:%)品別炭素ケイ素マンガンリン硫黄銅鋼(最上)1.33 0.04 痕跡 0.014 0.006 - 玉鋼0.89 0.04 痕跡 0.008 痕跡 - 伯耆国近藤家生産鋼の分析結果 (単位:%)品別炭素ケイ素マンガンリン硫黄銅白鋼1.43 0.022 痕跡 0.011 痕跡 痕跡 鋼1.10 0.019 痕跡 0.018 痕跡 痕跡 頃鋼1.84 0.021 痕跡 0.021 0.006 痕跡 玉鋼1.23 0.01 痕跡 0.009 痕跡 痕跡 この当時は必ずしも玉鋼を最上級品と定義したわけではなく、また、各たたら業者間での規格、製品名の統一も完全ではなかった。 なお、「玉鋼」の語源については諸説あり、坩堝製鋼された物が大砲の弾(玉)の製造に使用されたため、という説が存在する一方、人間の拳大に割られた鋼を「玉」と呼称していたことから派生した、という説もある。 海軍ではその後も鋼の増産に努め、日露戦争が始まる明治37年(1904年)ころより生産量を大きく伸ばしたが、それにともないたたら業者との原料鉄の契約量も増加してゆく。ただし、当時の呉海軍工廠に納入された鉄材のうちの多くは輸入鉄であり、対するたたら鉄の割合は全体の2割程度に過ぎなかった。また、そのころには玉鋼の契約量はすでに減少しており、鋼の売買は頃鋼が中心となっていた。 日露戦争終結後の明治40年(1907年)、不況の到来とともにたたら業者の経営は徐々に厳しものへとなってゆく。海軍へのたたら製品の納入は経営難になりながらも続き、第一次世界大戦中には一時的に製造量が急増したが、大戦後の軍縮ムードの中で一転して急激な減少を記録し、さらにワシントン海軍軍縮条約によって決定的打撃を受けた。
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