近藤氏
(近藤家 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 05:19 UTC 版)
近藤氏(こんどうし)は、日本の氏族。著名な氏族・家に次のようなものがある。
- 藤原秀郷の子孫である中世武家の氏族(→藤原秀郷流近藤氏)。
- 藤原利仁の子孫である中世武家の氏族(→藤原利仁流近藤氏)。
- 藤原良門の子孫である北面の武士だった氏族(→藤原良門流近藤氏)。
- 西光(藤原師光)の一族の氏族(→西光流近藤氏)。
- 遠江国引佐郡の封建領主だった旗本家(→遠江引佐郡の旗本近藤氏)。
- 信濃国伊那郡の封建領主だった旗本家(→信濃伊那郡の旗本近藤氏)。
- 日本郵船会社社長近藤廉平の勲功により華族の男爵家に列した家(→近藤廉平男爵家)。
- 海軍造船中将近藤基樹の勲功により華族の男爵家に列した家(→近藤基樹男爵家)。
藤原秀郷流近藤氏
藤原北家魚名流藤原秀郷の玄孫脩行を祖とする氏族[1]。『尊卑分脈』によれば脩行までの系譜は「秀郷―千常―文脩―文行―脩行」。脩行が近江掾(近江国(滋賀県)国司の一員)に任官して近江国に住したことで「近」の字をとって近藤と名乗ったのに始まるという[1]。
『尊卑分脈』によれば、脩行の後の系譜は次の通りである[2]。
近藤脩行 |
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行景 |
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景親 |
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景重 |
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国澄 |
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国平 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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景頼 |
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能成 |
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大友能直 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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古庄重能 | ||||||||||||||||||||||||
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田村仲教 | ||||||||||||||||||||||||
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武藤頼平 |
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資頼 | ||||||||||||||||||||||||||||
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景清 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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藤原利仁流近藤氏
藤原北家魚名流藤原利仁流の近藤氏は早くから上記秀郷流近藤氏と混同された[1]。『尊卑分脈』も、近藤能成について秀郷流だけでなく、利仁流として「則経―則明(後藤太)―惟峯(後藤三)―惟重(島田権守)―成貞(近藤武者)―能成(近藤太)―能直」とも記載している[1]。
藤原良門流近藤氏
藤原良門の子孫で北面の武士だった氏族[3]。『尊卑分脈』には「藤原良門―利基―兼輔―雅正―為頼―伊祐―頼祐―実範、弟近藤有信(中務大輔)―信親(修理大夫)―範規(左京大夫)―有親(右京大夫)―親輔(大膳大夫)―遠兼(鳥羽院北面、左馬助)―清資(讃岐守、左馬助)―宗重(後白河院・後鳥羽院北面所司。伊予守、左馬助)―光重(後嵯峨院北面、伊予守、右馬助)―高重(後深草院北面、伊予守)―資重(後深草院北面、伊予守)―有高(後宇多院北面。暦応元年戦死)―広高(後伏見院北面。弟の戦死後隠遁)、弟清高(建武3年戦死)」の系譜が記される[3]。
西光流近藤氏
鹿ケ谷事件の際に平清盛に斬られたことで知られる西光(藤原師光)の一族の近藤氏。西光は阿波国出身でその父祖は詳かではないが[4]、『阿波志』によれば西光はもともと近藤を称して柿原に住したのだという[5]。西行の次男は近藤判官師経と称されており、父や兄の加賀守師高とともに平家により斬られた[6]。『阿波志』は師高の第四子の系統の親家が近藤を称したとしており、彼の名は『平家物語』や『吾妻鏡』にも「阿波国住人近藤六親家」として見える[5]。
遠江引佐郡の旗本近藤氏
近藤氏 | |
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本姓 | 称・藤原氏 |
種別 | 武家(交代寄合) 士族 |
主な根拠地 | 遠江国引佐郡 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
遠江国引佐郡の国人で、近世に江戸幕府旗本家(そのうち一家は交代寄合)を複数出した氏族[6]。
家伝では近藤能成の末裔と称する[6]。ただし、高野山平等院にある『三州過現名帳』に記載された歴代当主と思われる名乗りは藤原氏ではなく建部氏となっているため、仮冒であった可能性が高い。また、歴史学者の丸島和洋は、通説では戦国時代になって初めて近藤氏の本拠になったされてきた三河国宇利城について、『三州過現名帳』の記述によって既に室町時代には建部氏(近藤氏)が城主であったことが確定できるものの、途中に90年近い空白がありかつそれが『寛永伝』における近藤氏の系譜の中断時期と重なることから、室町時代から戦国時代前期にかけて(『三河物語』などで城主とされる)三河熊谷氏によって宇利城を追われて、長期にわたって本拠を失っていた時期があった可能性を指摘している[7]。
康用の代に三河国八名郡宇利から遠江国井伊谷へ移住し、井伊氏に仕えた[8]。永禄11年(1568年)の徳川家康による遠江侵攻を機に徳川配下に転じる。家康が遠江を支配下に置くと旧領の井伊谷を与えられた[8]。
康用の子秀用は慶長7年に上野国邑楽郡で5000石を与えられて旗本になり、青柳に陣屋を置いたが、慶長19年に1万石に加増されて譜代大名となり、元和5年に旧領の遠江井伊谷1万7000石に転封となった(遠江国井伊谷藩)[9]。しかし秀用は浜名湖北岸に在った所領を子息たちに分知したため各々が万石以下となり、以降はそれぞれ旗本家として存続した[10]。
秀用の長男季用の系統は、引佐郡金指に陣屋を置き3500石(金指近藤家。後に5450石に加増)、秀用の次男用可の系統は、引佐郡気賀に陣屋を置いて5000石(気賀近藤家。後に3409石余[11])、秀用の四男用義の系統は、引佐郡井伊谷に陣屋を置き5450石(井伊谷近藤家。後に分知で5000石)、秀用の甥用伊の系統は、引佐郡花平に陣屋を置き320石(花平近藤家。後に820石に加増)、用可の庶子用行の系統は、引佐郡大谷に陣屋を置いて気賀近藤家からの分知で2000石(大谷近藤家。後に3000石に加増)をそれぞれ領した。この五家の旗本家は、引佐五近藤家と称された[9]。
このうち秀用の次男用可の家系(気賀近藤家)は、交代寄合表御礼衆の一家となった[9][11]。この系統のみが大名待遇の交代寄合の格式を許されたのは気賀の関所を守ることを家職としたためと思われる[12]。
交代寄合近藤家の維新期の当主は近藤用虎[11]。用虎は、朝廷に早期帰順し[11]、慶応4年2月に朝臣に編入[13]。明治元年10月に上京し、11月4日に本領安堵と中大夫編列を許されたが、静岡藩立藩の関係で、その場で追って替地の沙汰を受けた。そのため気賀村を除き、引佐郡広岡村、同国長上郡小松村・道本村、麁玉郡新原村。豊田郡柴本村は上地となった[13]。さらに東京定府となり、明治2年2月には気賀村、3月には気賀陣屋も引き渡した。替地は与えられないまま、同年12月2日の旧旗本朝臣の禄制改革を迎え、現米120石の蔵米支給となった[13]。また同年に中大夫以下の称が廃されるに及んで士族に編入された[11]。
明治17年(1884年)に施行された華族令で華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元交代寄合諸家が男爵に含まれており、同近藤家も男爵家の候補として挙げられていたが、最終的な『叙爵内規』では対象外となったため、結局近藤家は士族のままだった[11]。
信濃伊那郡の旗本近藤氏
近藤氏 | |
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本姓 | 称・藤原氏 |
種別 | 武家(旗本) 士族 |
出身地 | 尾張国愛知郡沓掛 |
主な根拠地 | 信濃国伊那郡 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
藤原秀郷の三河国に移住した末裔の子孫と称する[10]。戦国時代には尾張国愛知郡沓掛を本拠とし、近藤重勝の代に堀秀政に仕え、慶長3年に豊臣秀吉より1万石を与えられて大名となった。堀秀政の四男政成が養子に入り、関ヶ原の戦い後も1万石を維持したが(信濃国近藤藩)、元和4年に政成が死去した際、子の重直が幼少であることを理由に信濃国伊那郡山本領5000石に減封され、寄合となった[8][14]。
維新期の当主は近藤政敏。政敏は幕末には将軍徳川家茂と慶喜の馬術指南役を務め、征長戦争にも従軍した旗本だったが、慶応4年1月26日、江戸幕府征伐のため東進中の東征軍により伊那郡山本の所領を収公されたことを山本陣屋からの飛脚で知ると、幕府を見限り朝廷に付いて本領安堵してもらう決心を固めた。幕府に疑われぬよう「家族を逃すため知行地の山本陣屋へ行くが、その後江戸へ戻って忠節を尽くす」という心にもない届け出をして江戸を離れる許可を得た政敏は、2月10日早朝にも実際には女子供は伴わず家臣7人だけ連れて江戸を離れた。この出発について政敏は京都到着後の朝廷への報告では「脱走同様に江戸を出てきた」と表現している。政敏の意識としては、徳川家膝元という賊地からの脱走という意識があったと見られる[15]。
甲州街道では敗走する徳川軍の脱走兵が狼藉を働いていたことから政敏一行は迂回路を取り、19日に所領の上穂村に到着。すでに山本陣屋では美濃大垣に滞陣する東山道鎮撫総督府に使者を送って御用伺いをしており、それを通じて近藤家には陣屋での待機が命じられていた[16]。24日に陣屋に入った政敏は27日にも総督府軍本陣に使者を立て、金穀御用や出兵を申し出るとともに、清内路関所の与かりを請願した。3月2日には政敏自身も下諏訪の本陣に参上して請願を行ったが、信濃国は尾張藩の与かり地になったのでそちらに請願するよう言われ、名古屋へ赴いた。3月20日に尾張藩に勤王誓書を提出するも、尾張藩からは京都の太政官に請願するよう言われ、4月2日に京都で勤王誓書と由緒書、総督府や尾張藩に提出した請願書一式全部を太政官に提出した[15]。
5月15日、太政官より、近藤家を含む上京旗本134家に対し、朝敵徳川慶喜に与しなかったといえども、徳川家臣の輩には相応の処分が申し付けられるべき所、現在賊党となる旗本も多い中で方向を見失わず身分相応の御用を願い出てきたことに鑑み、天皇の特別の慈悲をもって朝臣編入のうえ本領安堵する旨の通達があった。これにより近藤家は本領安堵されて朝臣に列した[15]。
政敏は、太政官に提出した由緒書の中で、近藤家の由緒について、もともとは交代寄合だったという説明をしているが、少なくとも幕末時には近藤家は江戸定府の一般旗本だった[15]。そのため近藤家に中大夫席は認められず、1000石以上の一般旗本として下大夫席に列した[15]。
6月には本領安堵を受けた在京旗本たちには1000石につき200両の軍資金献上が命じられ、5000石の近藤家は1000両を献上した。この上納が終わった7月28日に帰村が許されて伊那郡山本陣屋へ戻った[15]。
本領安堵とはいっても、それは旧来の封建領主としての地位の保障ではなく、貢租徴収権のことであり、旗本たちの領地の行政権や司法権は府県に回収されていた。近藤家も領地のある信濃国伊那郡に伊那県が設置されると、郷村高書物御引渡目線、制割付帳、去辰皆済目録帳、去辰切支丹宗文改帳并証文、同増減帳、村々人口家数帳、寺社帳、苗字帯刀指許并手当米差遣候人銘帳など13点を県に提出している[17]。年貢徴収に関する書類も提出しているのは領主に認められるのは収納権のみで、定免割付は県の権限だからである[17]。
明治2年に中大夫・下大夫・上士の分類が廃され、士族に編入されるとともに、同年の録制改革で旧旗本の所領はすべて収公となった。大名家は明治4年の廃藩置県まで封建領主として存続したが、旗本はそれより早い明治2年分の貢租収納を最後として封建領主としては解体された[17]。近藤家も伊那郡山本の所領を収公され、現米150石が蔵米から支給された[15]。明治9年の秩禄処分で金禄公債と引き換えに家禄制度が廃されるまで米を支給された。領地がなくなったことで不要となった近藤家家臣団は解雇し、明治4年に近藤家は旧領の山本村で帰農、明治6年から政敏は同村の七久里神社の祠掌になった[15]。
近藤廉平男爵家
近藤家 | |
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種別 | 武家(徳島藩士) 士族 華族(男爵) |
出身地 | 阿波国徳島藩 |
主な根拠地 | 東京府 |
著名な人物 | 近藤廉平 |
凡例 / Category:日本の氏族 |

日本郵船会社社長で勲功により華族の男爵家に列せられた近藤廉平(嘉永元年11月25日生、大正10年2月9日没)の家。近藤廉平は、旧徳島藩藩医近藤玄泉の次男として生まれ、一族の近藤源兵衛の養子に入った。維新後には三菱に入社し、吉岡鉱山事務長、三菱汽船会社取締役を経て、明治18年に日本郵船会社の創設に携わり、明治28年に同社社長となる。海運の発展に貢献し、日清・日露戦争では軍事輸送にも尽した。その勲功により明治44年8月に男爵に授爵され、後に貴族院の男爵議員にも当選した[18][19]。
大正10年2月9日に廉平が死去した後には、滋弥(明治15年9月17日生、昭和28年8月20日没)が爵位を継承。滋弥は実業家として活躍した後、大正14年以降貴族院の男爵議員に3回当選して務めた[20]。昭和前期に近藤男爵家の住居は東京市麻布区広尾町にあった[20]。
滋弥の息子は眞和(大正6年12月24日生)[21]。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 上巻』に準拠[18]。
近藤源兵衛 | |||||||||||||||
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廉平 | |||||||||||||||
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滋弥 | |||||||||||||||
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眞和 | |||||||||||||||
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宇多子 | |||||||||||||||
近藤基樹男爵家
近藤家 | |
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種別 | 武家(鳥羽藩士) 士族 華族(男爵) |
出身地 | 志摩国鳥羽藩 |
主な根拠地 | 東京府 |
著名な人物 | 近藤真琴 近藤基樹 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
海軍造船中将で勲功により華族の男爵に列せられた近藤基樹の家。基樹の父近藤真琴は、旧鳥羽藩士で海軍中佐の教育家だった。基樹は海軍二等工長となった明治16年以降、海軍技術畑を進み、大正4年には工学博士号を取得し、大正8年(1919年)に海軍造船中将に昇進。昭和4年(1929年)12月9日に海軍造船と技術向上に尽した勲功により華族の男爵に叙爵された[22][23]。
その翌年に基樹は死去し、息子の近藤雅樹が爵位を継承。彼は陸軍航空本部に勤務した将校だった[23]。階級は航空兵少佐[18]。予備役入り後は攻玉社社長。昭和前期の近藤雅樹男爵の住居は東京市大森区雪谷にあった[23]。
系図
- 実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 上巻』に準拠[18]。
近藤真琴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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基樹 | 婉子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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雅樹 | 茂樹 | 重子 | 信夫 | 忠夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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智子 | 艶子 | 美樹 | 蔦子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ a b c d 太田 1934, p. 2399.
- ^ 太田 1934, pp. 2399–2400.
- ^ a b 太田 1934, p. 2400.
- ^ 太田 1934, p. 2401.
- ^ a b 太田 1934, p. 2405.
- ^ a b c 太田 1934, p. 2402.
- ^ 丸島和洋「高野山平等院供養帳と三河国衆」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P289-291.
- ^ a b c 森岡浩 2012, p. 214.
- ^ a b c 森岡浩 2012, p. 215.
- ^ a b 太田 1934, p. 2403.
- ^ a b c d e f 松田敬之 2015, p. 308.
- ^ 改訂新版 世界大百科事典『交代寄合』 - コトバンク
- ^ a b c 仲田正之 2002, p. 33.
- ^ 池田勇太 2010, p. 96.
- ^ a b c d e f g h 池田勇太 2010, p. 98.
- ^ 池田勇太 2010, p. 97.
- ^ a b c 池田勇太 2010, p. 99.
- ^ a b c d 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 617.
- ^ 松田敬之 2015, p. 307.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 717.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 616.
- ^ 松田敬之 2015, p. 306.
- ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 662.
参考文献
- 池田勇太「旗本近藤家の明治維新」『飯田市歴史研究所年報 8巻』2010年(平成22年)。
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 近藤 コンドウ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2399-2407頁。全国書誌番号:47004572 。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。 ISBN 978-4642036702。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。 ISBN 978-4820540342。
- 仲田正之「明治に残る元禄地方直しの影「朝臣領」 - 封建制度の終焉について -」『駒沢史学第59号』、駒沢史学会、2002年(平成14年)。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。 ISBN 978-4642014724。
- 森岡浩『日本名門・名家大辞典』東京堂出版、2012年(平成24年)。 ISBN 978-4490108217。
近藤家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/19 04:38 UTC 版)
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