気賀近藤氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/13 06:56 UTC 版)
気賀関所を管理していたのは、気賀の地頭で、「乱暴旗本」として知られた近藤登之助と同族の近藤氏(気賀近藤氏)だった。気賀近藤家は3,500石を有した江戸幕府の旗本で、元和5年(1619年)から明治維新まで、12代にわたり関所を管理した。 1707年(宝永4年)の富士山噴火の際に、ときの地頭・近藤用清は浜名湖岸の田畑3,900石を失い、復旧に努めた結果、20年後までに500石を回復した。1753年(宝暦3年)に用清の養子となって気賀近藤家の家督を継いだ近藤登之助の次男・近藤用随は、新しい水路を拓き、都田川に堤防を築くなどして更に800石を回復、しばしば塩害に遭い米作に不向きとされた干拓地に琉球藺を導入して栽培させ、これが遠州表特産化の端緒となった。
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