気賀宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/22 06:59 UTC 版)
気賀宿(きがしゅく)は、17世紀初めに江戸幕府が気賀(現在の浜松市北区細江町)に設置した本坂通(姫街道)の宿場である。町の東端に気賀関所がある要害の町として知られ、地頭の気賀近藤氏が関所を管理した。
- ^ 浜松市 編『北区版避難行動計画 詳細版』浜松市、2016年、1-3,4頁 。2016年12月6日閲覧。
- ^ a b c d 小杉 1997, pp. 185–187.
- ^ 気賀関所TOP > 要害堀 浜松市(2016年) 2016年12月7日閲覧。
- ^ a b みわ 2003, p. 179.
- ^ 気賀関所TOP > 町木戸門 浜松市(2016年) 2016年12月7日閲覧。
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『桝形』 - コトバンク 2016年12月7日閲覧。
- ^ デジタル大辞泉『棒鼻』 - コトバンク 2016年12月7日閲覧。
- ^ a b c 気賀関所 2016a.
- ^ 気賀関所 2016b.
- ^ 渡辺 2012, p. 20.
- ^ 浜松市役所 1971, p. 179.
- ^ 内藤 1972, p. 160.
- ^ a b 内藤 1972, pp. 160–161.
- ^ 1764年(明和元年)に大阪大番頭を命ぜられて在任中に、豊後杵築城主・松平市正から、同様の被害に遭った際に、琉球藺草の栽培で問題を解決したことを聞き、家臣の後藤久一を豊後に派遣して、持ち帰らせた苗を試験的に栽培した後、導入した(内藤 1972, p. 160-161)。
- ^ 飯田 1982, pp. 146–152.
- ^ 羽鳥 2014, p. 35.
- ^ a b 本多 2014, pp. 179–180.
- ^ 小杉 1997, p. 178.
- ^ 浜松市役所 1971, pp. 180–181.
- ^ 松浦 2014, p. 25.
- ^ 浜松市役所 1971, p. 181.
- ^ 享保2年以降、人馬継立法度となり、気賀・三ヶ日・嵩山とのみ呼ばれ、宿とはされなかった(国際交通文化協会、(1938)77頁。)。
- ^ 国際交通文化協会、(1938)77-78頁。
- ^ a b 小杉 1997, p. 185.
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