本坂通の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:35 UTC 版)
関所と新宿の設置 戦国時代末期、交通の要衝であったことから、天正年間(1573~92)以前には、本坂に関が設けられていた。天正15年(1587年)6月に、本多作左衛門が道沿いの要所に新宿を設け、これによって近世の姫街道が整備され、人馬の継ぎ立ても充実した。 宿駅の制と気賀関所の設置 慶長6年(1601年)に、江戸幕府は東海道宿駅の制を定めた。このとき本坂越は東海道本坂越と名付けられたという。 慶長9年(1605年)には、慶長地震による津波で浜名湖南岸が被害を受けた。 この頃、街道の監視のため、気賀に関所が設けられた(気賀関所)。設置年代不明だが、「斉藤家文書」により、慶長6年(1601年)に宿駅の制が定められたときに設置されたとする説が一般的とされている。その他に、気賀の「白井家文書」により、慶長地震よりも後の、慶長17年(1612年)とする説、慶安2年(1649年)の「気賀関所茅葺御修復の書付」により慶長から元和元年(1615年)とする説もある。 本坂通の宿は、市野、気賀、三ヶ日、嵩山の四宿が設置された。慶長15年(1610年)に、江戸幕府から気賀宿に『伝馬駄賃掟書』が発給され、宿場に伝馬が置かれ、人馬の継立が行なわれ、寛永16年(1639年)以前には、市野宿に伝馬が置かれた。 また、年月不明だが、将軍が上洛する際の休憩施設である「御殿」が、野地 に設置された。 本坂通は、道幅が9尺(2メートル強)で、坂道の石畳や松並木が全線に渡って整備されたわけではなく、交通量の少ない補助道路だったため設備が大分簡略化されていた。しかし、旅人の監視は本道並みに厳格であった。 市野宿の衰退 市野宿はもともと市場として栄えた場所で、本坂越の旅人が増えると宿場として取次ぎを行なうようになり、江戸時代の初期には本陣・陣屋もあり人馬の継ぎ立てを行なっていた。 その後、市野の経済圏は浜松宿や市野の東北にあった笠井の市に奪われていき、また初代遠州代官であった市野惣太夫が没落したこと、宝永の大地震で本坂道の通行量が増え一時的に賑わいを取り戻した時期もあったが、却って宿泊や荷物の運搬にかかる人件費がかさんで収支を悪化させたこと、天竜川の洪水で被害を受けたこと、浜松宿への助郷を命じられたことなどから衰退し、明和元年(1764年)に本坂通しが幕府の道中奉行の管轄となった際に、浜松宿から気賀に向かう経路が公認されると交通量が激減し、伝馬屋敷の数は初期には36件あったが、中期には20軒ほどになり、安間から市野を経て三方ヶ原追分に至る経路は「潰れ往還」になった、といわれた。 その後も、鳳来寺や方広寺、竜潭寺、旗本の近藤氏などの関係者は市野宿を通行し、その際は市野の斎藤家が本陣的な役割を果した。なお、文化9年(1812年)には火災により市野宿の約12軒が焼損している。
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