本坂通の通行と推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:35 UTC 版)
池田近道 江戸時代の初期には、浜松宿と見附宿間にあった天竜川の東岸の渡船場は、長森にあったが次第に北上し、寛文元年(1661年)頃には池田村の地内にあった池田の渡しに移されていた。旅人は、見附宿から南下して中泉村へ至り、西進し、長森から池田へ北上する東海道の本道よりも、見附から直接西へ向かい、池田へ抜ける近道(作場道、池田近道)を利用していた。道中奉行は、往来禁止の制札を池田近道の入口に立てたが、往来は止まなかったという。 貞亨元年(1685年)頃には、池田近道は田んぼの中を通るような小道で、馬は通らなかったとされている。 江戸時代、十辺舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』では、徒歩の弥次郎兵衛は通行禁止の立て札が立てられた池田近道を通り、池田の渡しで東海道(本道)を馬で移動した喜多八と合流している。 池田の対岸からの経路には、富田から南に下って中野町村を通り安間新田まで東海道の本道を通る経路の他、富田から西北に進み市野に出る経路があった。直接市野へ出る経路は近道なので、池田近道同様に利用者が多かった。 天竜川が洪水になり、流域が水に浸って東海道が通行できなくなったときには、池田と市野は標高が高いため島のようになり、磐田原西端の大乗院坂から池田、池田から天竜川を横切って富田、富田から市野へ仮渡船が運航された。 象鳴き坂 享保14年(1729年)には、長崎から江戸まで陸路で運ばれた「享保の象」が本坂通を通行した。象は気賀本陣の中村家に作られた象小屋に泊まった。翌日落合川を渡るのに、船を2艘並べて渡そうとしたが象が重すぎ失敗したため、上流に回って浅瀬を自力で渡り、金指・祝田・三方ヶ原を経て浜松へ向かった。引佐峠の西側の斜面には、急坂のため象が鳴き声を上げたという「象鳴き坂」の名が残っている。 豊川稲荷 宝暦年間(1750年頃)には、豊川の妙厳寺の境内にあった小さな稲荷神社に牛久保の西島稲荷が婿入りしてきたとの噂が立って人気を集め(豊川稲荷)、全国に信者が増えて、それまでさびれる一方だった本坂通を含む豊川への街道筋に人通りが戻り、豊川には門前町が形成された。 お蔭参りと本坂通 享保15年(1730年)には、お蔭参りが流行し、都田村では、女中たちの抜け参りが多かったため、気賀関所の命令を受けて、見張人を街道沿の村の山へ毎日出したが、それでも抜け参りは絶えなかったとされる。 文政13年(1830年)に浜名湖北岸の気賀・三ケ日方面からお蔭参りが流行し、浜松方面にも波及した際には、多くの人が本坂通を利用した。
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