本坂通周辺での争いとは? わかりやすく解説

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本坂通周辺での争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:35 UTC 版)

本坂通」の記事における「本坂通周辺での争い」の解説

獄門畷と山村修理の墓 永禄11年1568年)に、徳川家康本坂峠を越えて岡崎から湖北攻め込み今川方の堀江城大沢左衛門家康降伏したが、降伏応じない大沢家臣たちは、尾藤主膳山村修理、新田友作の3人を首領として、地元農民など雑兵約1,700人を集めて堀江城出城である気賀堀川城立て籠もった。永禄12年1569年2月掛川城落とした家康は、同年3月に再び本坂峠を越えて堀川城攻め堀川城徳川勢によって一方的に殺戮された。尾藤主膳堀江城大沢逃れた切腹させられ山村修理は本坂道を葭本まで逃れた自害新田友作は逃亡した城兵は約半数殺害され半数が捕えられたが、家康石川三郎命じて捕虜皆殺しとし、約700人を女子供含めて気賀都田川の堤で全員首を刎ねた。新田その後、葭本の金地院戻り戦死者菩提弔っていたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑された。 城兵新田友作が斬首された都田川の堤には、「獄門畷(なわて)」の名が残っており、三ケ日一里塚近く一里山本坂通沿いには、自刃した山村修理の墓が残っている。 三方ヶ原の戦い 元亀3年1572年10月に、武田信玄青崩峠越えて遠州入り磐田原西麓社山(やしろやま)に布陣して二俣城攻略した後、同年12月天竜川越えて浜松城迫り三方ヶ原徳川家康軍および織田信長援軍交戦した三方ヶ原の戦い)。戦い徳川軍大敗終ったとされ、戦いの後武田軍南進し犀ヶ崖に布陣したが浜松城攻めずに刑部宿営した武田軍刑部滞在したのは信玄病気の手当てのためで、先年堀川城攻め家康憎んでいた刑部住民武田軍歓待したといわれている。 元亀4年1573年1月に、武田軍本坂通西進三ケ日から北進して宇利峠を越えて三河入り野田城攻めたとされている(野田城の戦い)。

※この「本坂通周辺での争い」の解説は、「本坂通」の解説の一部です。
「本坂通周辺での争い」を含む「本坂通」の記事については、「本坂通」の概要を参照ください。

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