三方ヶ原の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/07 12:25 UTC 版)
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。
注釈
出典
- ^ 丸島 2015, p. 684, 「山県昌景」.
- ^ 谷口克広『織田信長合戦全録』〈中公新書〉2002年、112頁。ISBN 978-4-12-101625-6。
- ^ 『「家康大敗」の真相は』「古今をちこち」磯田道史。読売新聞2013年11月27日29面
- ^ 柴裕之「足利義昭政権と武田信玄―元亀争乱の展開再考―」(『日本歴史』817号、2016年6月)
- ^ 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」(『戦国史研究』第74号、2017年)/久野『織田信長政権の権力構造』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-326-8 2019年、P176-190.
- ^ 染谷光広「武田信玄の西上作戦小考―新史料の信長と信玄の文書―」『日本歴史』360号、1978年。
- ^ 平山 2020, p. 133-138.
- ^ 平山 2022, p. 287-291.
- ^ 平山 2020, p. 188-190.
- ^ 平山 2022, p. 297-300.
- ^ 平山 2020, p. 191-195.
- ^ 平山 2022, p. 309-317.
- ^ a b c 丸島 2013, p. 210.
- ^ a b 丸島 2013, pp. 210–211.
- ^ 原 2016, p. 7.
- ^ 堤邦彦 著「いくさ語りから怪談へ」、徳田和夫; 堤邦彦 編『寺社縁起の文化学』(初版第2刷)森話社、2006年、179-181頁。ISBN 4916087593。
- ^ 小楠 2000.
- ^ 原 2016, pp. 7–8.
- ^ 小和田哲男『戦国の群像』(学習研究社、2009年)177-178頁
- 1 三方ヶ原の戦いとは
- 2 三方ヶ原の戦いの概要
- 3 合戦後
- 4 三方ヶ原の戦いをめぐる論点
- 5 参戦武将
- 6 脚注
三方ヶ原の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)
詳細は「三方ヶ原の戦い」を参照 劣勢に追い込まれた徳川家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。 しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、朝倉義景はその後も動こうとしなかった。
※この「三方ヶ原の戦い」の解説は、「武田信玄」の解説の一部です。
「三方ヶ原の戦い」を含む「武田信玄」の記事については、「武田信玄」の概要を参照ください。
三方ヶ原の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 07:54 UTC 版)
詳細は「三方ヶ原の戦い」を参照 信玄は信長と戦うまでは兵力の損耗や長期戦を嫌った。家康の居城・浜松城は東西420メートル、南北250メートルに及ぶ巨郭であり、多くの曲輪に仕切られた堅城であった。さらに徳川方には佐久間信盛・平手汎秀ら織田の援軍3000(織田軍記)~2万(甲陽軍鑑)が合流し、総勢1万1000~2万9000に増加していた。 このため、信玄は浜松城の北5キロの地である追分に進出して家康を挑発して城から誘い出した。そして12月22日に行なわれた三方ヶ原の戦いは、連合軍不利な状況で開戦され、2時間で武田軍の勝利で終わった。武田軍の死者は200人。連合軍は平手汎秀をはじめ、中根正照・青木貞治・石川正俊・小笠原安次・小笠原安広(安次の子)・本多忠真・米津政信・大久保忠寄・鳥居忠広ら2000が死傷するという状況であった。このとき、家康は山県昌景の攻撃を受け、家臣の夏目吉信が身代わりとなっている間に浜松城に逃げ込んだとされる。しかし家康の使った空城の計に疑念をもった山県昌景らは、浜松城までは攻撃しなかった。
※この「三方ヶ原の戦い」の解説は、「西上作戦」の解説の一部です。
「三方ヶ原の戦い」を含む「西上作戦」の記事については、「西上作戦」の概要を参照ください。
三方ヶ原の戦いと同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 三方ヶ原の戦いのページへのリンク