両軍の布陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:29 UTC 版)
この戦において徳川軍は鶴翼の陣を取り、武田方は魚鱗の陣で待ち構えていたとされる。鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、逆に魚鱗の陣は劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形であり、数に劣る徳川軍、数に勝る武田軍であったとすると、どちらも定石と異なる布陣を敷いていたことがわかる。 徳川方が鶴翼の陣を取った理由の説 そもそも武田軍本隊は去っており、待ち構えているのは少数であると予想していたため。 最初から勝ち目が無いことはわかっていたため、兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。 武田軍が魚鱗の陣を取った理由の説 鶴翼の陣を見て大将首(家康)を討ち取ることに狙いを絞った(鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる)。 織田軍の中でも特に増員兵力の多い佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたことなどから、織田軍の支援を考慮して相手方を多く見積もっていた。 他にも説はあるが、何れにしてもはっきりしたことはわかっていない。
※この「両軍の布陣」の解説は、「三方ヶ原の戦い」の解説の一部です。
「両軍の布陣」を含む「三方ヶ原の戦い」の記事については、「三方ヶ原の戦い」の概要を参照ください。
両軍の布陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 01:14 UTC 版)
5月7日(6月3日)未明、最後の決戦のため豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布いた。幕府方の軍勢は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始した。
※この「両軍の布陣」の解説は、「天王寺・岡山の戦い」の解説の一部です。
「両軍の布陣」を含む「天王寺・岡山の戦い」の記事については、「天王寺・岡山の戦い」の概要を参照ください。
両軍の布陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 06:03 UTC 版)
「ガザの戦い (紀元前312年)」の記事における「両軍の布陣」の解説
デメトリオス軍の布陣は右翼に騎兵1500、中央に歩兵11000を配し、デメトリオスは右翼指揮官のアンドロニコスに戦列を傾けて戦いを遅らせるよう命じた。左翼にはデメトリオス自身が騎兵2900、そして隙間を計1500人の投槍兵、投石兵そして弓兵で埋めた30頭の戦象を率いて陣取る、というものであった。この布陣からはデメトリオスの作戦は敵右翼をまず倒し、そこから敵中央を側面より包囲する、という作戦(鉄床戦術)が読み取れる。プトレマイオスは当初は左翼を強化していたが、このデメトリオス軍の左翼偏重の陣立てを見ると、デメトリオスの作戦を予想し、左翼に騎兵1000、中央に歩兵18000、そして右翼にプトレマイオス自らが陣取り、騎兵3000と戦象から自陣を防御するために投石兵と弓兵、そして若干の軽装歩兵を配するという右翼偏重の布陣をした。その軽装歩兵たちにプトレマイオスは戦象対策として鎖でつなげられた鉄製の釘を持たせた。
※この「両軍の布陣」の解説は、「ガザの戦い (紀元前312年)」の解説の一部です。
「両軍の布陣」を含む「ガザの戦い (紀元前312年)」の記事については、「ガザの戦い (紀元前312年)」の概要を参照ください。
- 両軍の布陣のページへのリンク