アクティウムの海戦とは? わかりやすく解説

アクティウム‐の‐かいせん【アクティウムの海戦】


アクティウムの海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 20:11 UTC 版)

アクティウムの海戦

Lorenzo A.Castro『アクティウム海戦』
戦争ローマ内戦
年月日紀元前31年9月2日
場所イオニア海アクティウム
結果オクタウィアヌス派の勝利
交戦勢力
オクタウィアヌス派 プトレマイオス朝
アントニウス派
指導者・指揮官
マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ マルクス・アントニウス
戦力
軍船 400隻
軍団兵 16,000
弓兵 3,000
軍船 230隻
軍団兵 20,000
弓兵 2,000
損害
戦死 2,500 戦死 5,000
撃沈・拿捕 200隻

アクティウムの海戦(アクティウムのかいせん、ラテン語: Actiaca pugna)は、紀元前31年9月にオクタウィアヌス支持派とプトレマイオス朝およびマルクス・アントニウス支持派連合軍の間で行われた海戦である。海戦の名は戦場がイオニア海アクティウム沖(現在のギリシャ共和国プレヴェザ)だったことに因む。

背景

グナエウス・ポンペイウスの子セクストゥス・ポンペイウスが処刑され、第二回三頭政治の立役者の1人で、最高神祇官でもあったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが失脚したことにより、ローマの政争はアントニウスとオクタウィアヌスの対立へと移った。オクタウィアヌスの姉オクタウィアと離別し、ローマとは疎遠になっていたアントニウスはプトレマイオス朝エジプトクレオパトラ7世と結び、東方専制君主の立場でオクタウィアヌスに挑もうとした。それに対しオクタウィアヌスは紀元前32年親戚関係を考慮し、アントニウスではなくクレオパトラに宣戦布告した。

経過

両軍の布陣。赤がオクタヴィアヌス軍、紫がアントニウス軍

アントニウスは総司令部をペロポンネソス半島沿岸のパトラに置き、艦隊をアンブラキア湾へと集結。一方でマルクス・ウィプサニウス・アグリッパはアンブラキア湾内を封鎖、アントニウス軍の動きを封じ込めると共に補給路の遮断を狙った。翌年の前31年9月2日、アクティウム岬沖で両軍が500隻以上の艦船を投じて決戦が行われた。

兵員の数ではアントニウス・クレオパトラ連合軍が上回っていたが、両軍が少し交戦した時点でクレオパトラの艦隊が戦線を離脱し、アントニウスはこれを追って撤退したため、指揮官を失ったアントニウス軍は陸海ともに総崩れとなって潰走、オクタウィアヌスの勝利となった。

影響

アクティウム海戦の敗北によって、アントニウスに味方していたユダヤヘロデらも離反してオクタウィアヌス側へ転向した。アントニウスはエジプトに帰還するクレオパトラの船を追った。オクタウィアヌス軍から、部下を置き去りにし女を追って戦場を後にしたと嘲笑されたアントニウスは、エジプトの首都アレクサンドリアへと逃亡した。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命令で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕のなかで息絶えたとされる。クレオパトラもオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺英語版した。コブラに身体を噛ませての死だったと伝わっている。

オクタウィアヌスは、これにより内乱の一世紀に終止符を打ち、地中海世界の統一も果たして、自らはプリンケプスとして帝政への道を開いた[要出典]

参考文献

  • Military Heritage published a feature about the Battle of Actium(Joseph M. Horodyski, August 2005, Volume 7, No. 1, pp. 58–63, 78), ISSN 1524-8666.
  • Califf, David J. (2004). Battle of Actium. Chelsea House Publishers. ISBN 0791074404. OCLC 52312409 
  • Green, Peter (1990). Alexander to Actium: The Historical Evolution of the Hellenistic Age. University of California Press. ISBN 0520056116. OCLC 13332042 
  • Gurval, Robert Alan (1995). Actium and Augustus: The Politics and Emotions of Civil War. University of Michigan Press. ISBN 0472105906. OCLC 32093780 
  • Sheppard, Si (2009). Actium 31 BC: Downfall of Antony and Cleopatra. Osprey Publishing. ISBN 978-1846034053. OCLC 315081632 

関連項目

外部リンク


アクティウムの海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:01 UTC 版)

クレオパトラ7世」の記事における「アクティウムの海戦」の解説

詳細は「アクティウムの海戦」を参照 紀元前31年アンヴラキコス湾集結したオクタウィアヌス軍とクレオパトラ・アントニウス連合軍であったが、古代の記録によれば9月2日突如としてクレオパトラ戦線離脱しアントニウス味方置いてそれを追ったために敗北したことになっており、あたかも責任クレオパトラあるかのようである。この海戦に関して様々な説があるが、学者東西どちらを専門にしているかで意見分かれている。しかし、東側圧倒的な経済力背景に、有能な指揮官であったアントニウスクレオパトラが、何も出来ず敗退したとするのは不可解であると言える同時代人かろうじて信頼出来そうホラティウスの『エボディ』などからは、オクタウィアヌス勝利したことは読み取れるものの、オクタウィアヌス本人による『業績録』にすらアクティウムに関する記述はなく、その存在すら疑われるほどで、ただクレオパトラ敵視されていたことだけは分かるという。当時東西経済格差からいって、内乱続いたイタリア立て直すため、アントニウス単独支えることが可能であったエジプトを奪う必要があり、クレオパトラ敵視されたのではないかとも考えられる対してアントニウスクレオパトラは、海上封鎖続け敵が自滅を待つ消極策を採っていたものの、それに対す危機感から団結した西方予想外に手強く封鎖破られたのではないかとする説もある

※この「アクティウムの海戦」の解説は、「クレオパトラ7世」の解説の一部です。
「アクティウムの海戦」を含む「クレオパトラ7世」の記事については、「クレオパトラ7世」の概要を参照ください。

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