さんとう‐せいじ〔‐セイヂ〕【三頭政治】
三頭政治
三頭政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:59 UTC 版)
「マルクス・リキニウス・クラッスス」の記事における「三頭政治」の解説
ポンペイウスとクラッススの関係はローマでは知らぬ者がいないぐらいの犬猿の仲であった。実際にポンペイウスがオリエント遠征から帰国して独裁政治を行うとの噂が出た際に、クラッススは家族・財産を持ってローマを離れたと伝えられている。カエサルの仲介によって紀元前60年にクラッススは宿敵ポンペイウス及びカエサルを交えた三者間でとの政治同盟(三頭政治)を組むことで合意した。 翌紀元前59年、カエサルがコンスルへ就任し、クラッススらがかねてより主張していた属州税徴収官(プブリカヌス)に対して徴税額の3分の1を前払いで納税するように定めた規則を廃止したほか、ポンペイウスが征服した東方属州の再編案も可決するなど、三者によって国政をリードした。紀元前58年からはプブリウス・クロディウス・プルケルが護民官に選任され、キケロをローマより追放、ポンペイウスへ圧力を掛けるなどローマ国政を壟断したが、この時期のクラッススに関する動向は文献からもはっきりしない。 紀元前56年、クラッススはポンペイウス及びカエサルとルッカで会談を持ち、紀元前55年から再びポンペイウスと共にコンスルに就くことを密約。密約通りにコンスルに選任されたクラッススは、紀元前54年から5年間シリア属州総督としてインペリウムを得る法が可決され、同時にポンペイウスにヒスパニア属州、カエサルにガリア属州の5年間のインペリウムを与える法も可決された。
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三頭政治
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「ガイウス・ユリウス・カエサル」の記事における「三頭政治」の解説
紀元前61年、カエサルは、ヒスパニア・ウルステリオル属州総督として赴任した。カエサルはヒスパニアへ向かう道中に立ち寄った寒村で、部下に対して「ローマ人の間で第2位を占めるよりも、この寒村で第1人者になりたいものだ」と語ったという。カエサルは属州総督としてローマ軍を率いてルシタニ族(英語版)やガッラエキ族(英語版)を討伐し、ローマへ服属していなかった部族も従えた。カエサルはこの属州総督時代に大金を得た。 紀元前60年、コンスルをめざすカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対し、カエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、騎士階級を代表し、スッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。ここに第一回三頭政治が結成された。民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。 執政官在任中にまず、元老院での議事録を即日市民に公開する事を定めた。それまでは議員から話を聞く以外には内容が知られることはなかっただけに、議員たちはうかつな言動は出来なくなった。また、グラックス兄弟以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させる。当初、元老院はこの法案に激しく反対したが、カエサルは職権で平民集会を招集、巧妙な議事運営で法案を成立させるとともに、全元老院議員に農地法の尊重を誓約させることに成功した。
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