三頭政治初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 09:47 UTC 版)
「グナエウス・ポンペイウス」の記事における「三頭政治初期」の解説
ポンペイウスはアジアでの戦役へ従軍した兵士に対して土地(耕作地)を与えること等を約束しており、これを叶えるべく奮闘したものの、マルクス・ポルキウス・カト(小カト)やルクッルスら元老院派(オプティマテス)はポンペイウスの人気に依然として警戒心を抱いていたこともあって不発に終わった。ポンペイウスはカトの妹を自身の妻へ迎えたい旨を申し入れたが拒絶された こともあって、ローマ市民からの人気も下がった。ポンペイウスは元老院に対して不満を抱えることとなった。 紀元前60年、ポンペイウスは長年の宿敵クラッスス及びプロプラトエル(前法務官)としてヒスパニア・ウルステリオルの属州総督であったガイウス・ユリウス・カエサルと非公式に手を結ぶことを決定し、紀元前59年にカエサルをコンスルとすること及びポンペイウスが率いていた兵士へ土地を供与すること等を内約した(一般に「三頭政治」(Triumviratus)と呼ばれる)。 紀元前59年、ポンペイウスはカエサルの娘ユリアを新しい妻へ迎え(前妻ムキアはカエサルとの不倫関係が明るみに出たため、ポンペイウスは離縁していた)、20歳以上も年齢差があったものの、ポンペイウスとユリアの夫婦仲は極めて良好であった。この年にカエサルはコンスルに就任し、ポンペイウスが要求していたポンペイウスの元兵士へ土地を供与すること及び自らが征服したシリアやユダヤなどの東方属州への再編成案などが可決され、農地法改正でもポンペイウスは重要なポストを得たことで大いに面目を保つことができた。ポンペイウスは紀元前58年からヒスパニア・ウルステリオル属州総督へ就任することも決定したが、現地へ赴任することなくローマに滞在することが認められた。なお、カエサルが紀元前58年からガリア・キサルピナやイリュリクムなどの属州総督となることも決定された。 紀元前58年、カエサルがガリア総督としてローマを離れた後、ローマ政界は三頭政治側の護民官であったプブリウス・クロディウス・プルケルが幅を利かせることとなった。クロディウスはキケロに激しい敵愾心を抱いており、クロディウスがキケロをローマより追放するための法案を提出した際にキケロはポンペイウスへ助けを求めたものの、ポンペイウスは取り合わずにキケロはローマを落ち延びざるを得なかった。 紀元前57年、クロディウスへの支持が急落したことや前年まで小アジアに赴任していたカトが帰還したこと、キケロの追放が解除されたこと(ポンペイウス自身もキケロのローマ帰還に助力したが)もあって三頭政治側は元老院派から反撃を受けた。ポンペイウスは政治への興味を失い、自らが携わったローマ最初の恒設劇場であった「ポンペイウス劇場」の工事進捗といった文化活動に興じると共に、ユリアとの新婚生活に溺れる有様であったという。
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