ローマ帰還
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「ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)」の記事における「ローマ帰還」の解説
コッタがローマに戻ることができたのは、スッラがマリウス派との内戦に勝利した紀元前82年のことである。コッタはスッラに感謝の気持ちを抱き、その支持者となった。スエトニウスによると、スッラは若きカエサル(ガイウス・マリウスの外甥)の殺害を命じるが、カエサルの親戚であったコッタ家の誰かとマメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌスが、この若者を助けるように懇願した。スッラはついには助命に同意したが、神のお告げか彼自身の本能のいずれかに従って叫んだ。「よかろう。カエサルを助けよう。しかし貴兄らが懸命に助命に努力している人物は、いつか貴兄と私が守ったオプティマテス(門閥派)の大義を破滅させるだろう。一人のカエサルは多くのマリウスなのだ!」。このコッタは本記事のガイウスまたは弟のルキウス(紀元前65年執政官)であろう。
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ローマ帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:53 UTC 版)
紀元前44年5月6日にオクタウィアヌスがローマに戻った時点で、この年カエサルとともに執政官であったマルクス・アントニウスとカエサルを殺した元老院派との間で既に不戦条約が結ばれており、カエサル暗殺の首謀者は各自恩赦により3月17日付で国外に退去、マルクス・ブルトゥスとカッシウスはギリシアに赴任し、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスはガリア・キサルピナ属州(現在の北イタリアの一部であるが、当時は本土イタリアの内と考えていなかった)を支配下に押さえていた。 ローマに戻ったオクタウィアヌスは、軍団兵の支持厚い名将、民衆派の政治家として人気の高かったカエサルの葬儀を執り行った。カエサルの財産の4分の3を相続するはずだったオクタウィアヌスだが、下記のようにアントニウスの妨害にあってそれを入手できないでいた。しかし借金などの金策に努めてカエサル配下の軍団に給与を支払い、ローマ市民にも遺言に従って一時金を支給するなどして、支持を取り付けた。 次第に頭角を現すオクタウィアヌスに対して、カエサルの死後、単独の執政官として事実上権力を掌握していたアントニウスは危機感を募らせた。当時アントニウスはカエサルの公的遺産を着服していたため、これを譲り渡すようオクタウィアヌスが説得した。アントニウスはこれを拒否し、オクタウィアヌスは説得には失敗するものの、多数のカエサル支持者から同情を買うこととなった。 同年9月には、アントニウスと対立していたキケロがオクタウィアヌスと接近し、協力するようになる。オクタウィアヌスはキケロら元老院派と手を組んでアントニウスを論難、アントニウスは元老院の脅威となっていると弾劾した。次第にアントニウスは元老院で孤立してゆき、さらに1年間である執政官の任期も迫ってきたため窮地に陥った。 この窮地に対してアントニウスは防衛策を打つ。執政官の任期が切れる前に、自分の身柄を保護する場所として属州ガリア・キサルピナに注目したのである。この属州は、上述のとおり当時デキムス・ブルトゥスが統治していたが、彼に代わり自らの統治を認める法案を元老院で成立させる。この間、オクタウィアヌスはカエサルの古参兵を招集して自らの軍隊を着々と編成、加えて10月28日にアントニウス配下の2個軍団も指揮下に入れる。12月31日に執政官の任期を終えたアントニウスは、翌紀元前43年1月1日にガリア・キサルピナへと逃れた。
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