黄金世紀のイタリアとは? わかりやすく解説

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黄金世紀のイタリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:24 UTC 版)

ルネサンスの歴史 (モンタネッリら)」の記事における「黄金世紀のイタリア」の解説

1 ルネサンスとヒューマニズム イタリア群雄割拠状態で、国家統一目標にならなかった。エリートたちは芸術家として成熟した2 大帝の遺産 1250年フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)死。イタリア統一失敗した1266年ルイ9世 (フランス王)の弟シャルル・ダンジューシチリアナポリ占領しアンジュー=シチリア家シチリア王国創始3 シチリアの晩鐘 1282年シチリア内乱シチリアの晩祷)が起こると、イベリア半島からペドロ3世 (アラゴン王)シチリア占領シチリア晩祷戦争)。シャルル・ダンジュー領土半島部のみのナポリ王国となる。 4 イタリアの情勢 14世紀初頭イタリアは、ミラノジェノヴァヴェネツィアフィレンツェナポリの5構造加えてローマ教皇庁がある。 5 ボニファティウス8世 紀元1300年記念してボニファティウス8世 (ローマ教皇)ローマ巡礼聖年祭企画ローマ商人たち儲けさせ、教皇庁財政穴埋めをした。 6 ハインリヒ7世 1305年フィリップ4世 (フランス王)意向で、クレメンス5世 (ローマ教皇)教皇庁南仏アヴィニョン移転一方ルクセンブルク公ハインリヒ神聖ローマ皇帝就任。しかし1312年ローマで戴冠式をしたあと急死7 ダンテ ダンテ・アリギエーリフィレンツェ白派の総務選ばれたが、1301年にシャルル・ド・ヴァロアを後ろ盾とした黒派から死刑宣告され逃亡ラヴェンナ死んだ世俗イタリア語による『神曲』流浪時代の作。 8 バビロニア捕囚 70年間のアヴィニョン教皇庁時代バビロニア捕囚呼ばれる。この時代シエナカテリーナ聖女と見なされ、教皇にも意見した9 コーラ・ディ・リエンツォ 1347年コーラ・ディ・リエンツォローマ市長選ばれ貴族対抗した。しかし過激すぎてクレメンス6世 (ローマ教皇)を敵に回し1354年反対派殺された。 10 ペトラルカ 1302年ダンテと同様、ペトラルカの父もフィレンツェから亡命したペトラルカアヴィニョン教皇庁就職しヨーロッパ最初大人文学者古書収集家となった11 ボッカチオ 1348年ペストの後、ボッカチオは『デカメロン』を書いた。彼はダンテのような社会的野心抱かずペトラルカのような世渡り上手でもなかった。 12 14世紀の商人 フィレンツェ西北プラートにダティーニは生まれたアヴィニョン商売始め以後フィレンツェ本社置いた彼の残した文書群14世紀商業貴重な資料である。 13 教皇ののローマ帰還 1367年ウルバヌス5世 (ローマ教皇)教皇庁アヴィニョンからローマへ帰還ローマ荒廃していた。次のグレゴリウス11世 (ローマ教皇)アヴィニョン戻ったが、改め1377年ローマ帰還14 教会分裂と公会議 1378年イタリア人ウルバヌス6世 (ローマ教皇)即位フランス勢力はこの選挙無効主張クレメンス7世 (対立教皇)アヴィニョン即位以後40年教会大分裂時代となる。1417年マルティヌス5世 (ローマ教皇)即位で、分裂は終わる。 15 教皇庁の反撃 ギリシャ正教会から教皇エウゲニウス4世 (ローマ教皇)へ、合同公会議提案が来た。1439年フィレンツェ公会議東西教会合同宣言が行われた。 16 自治都市から僭主国家へ イタリア自治都市当初総代」または「執政」制だった。12世紀中頃には実質上の元首である「大法官」制となり、13世紀には終身任期の例も見られる17 ヴィスコンティとスフォルツァ ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティによりミラノ公国ナポリに並ぶ強国となった。その孫娘婿のフランチェスコ・スフォルツァミラノ公国再建した18 ヴェネツィア共和国 ヴェネツィア1380年ジェノヴァ艦隊との戦闘で勝ち、イタリア海上権握ったヴェネツィア15世紀美術にもっとも貢献したのはジェンティーレ・ベッリーニジョヴァンニ・ベッリーニ兄弟19 祖国の父 15世紀にはフィレンツェ産業、とくに銀行業ヨーロッパ随一となったコジモ・デ・メディチフィレンツェ市役職にしばらくついたあと引退したが、実質上の独裁者で、「祖国の父」だった。ヨーロッパで累進課税最初に導入したのは彼である。 20 ロレンツォとジロラモ コジモの孫がロレンツォ・デ・メディチで、彼も公職につかずフィレンツェ支配したジロラモ・サヴォナローラサンマルコ修道院説教をし、ロレンツォ僭主であると攻撃したが、ロレンツォ黙認。「雅量ある人」と綽名された。 21 メディチ文化の担い手たち 1439年東西教会合同フィレンツェ公会議開かれたイタリア人プラトンアリストテレスといった大学者ギリシャ学者から知ったフィレンツェ芸術家には、ブレネレスキ、ドナテッロマサッチオフラ・アンジェリコフィリッポ・リッピボッティチェリがいる。 22 エステ家治下のフェラーラ 15世紀フェラーラ支配したのはエステ家で、ニッコロ3世・デステその3人の息子たちだった。人文学者としてグアリーノ(イタリア語)がいる。 23 ナポリ王国 ナポリアンジュー=シチリア家支配していたが、1442年シチリアからアルフォンソ5世 (アラゴン王)攻め入りアラゴン連合王国一部となる。 24 教皇帰還後のローマ 15世紀後半教皇ニコラウス5世ピウス2世シクストゥス4世はみな人文主義者であり、ローマ再興貢献した25 跋扈する傭兵軍団 イギリス人傭兵隊ジョン・ホークウッドなど、傭兵は金のために働く。敵がより高報酬提示する躊躇なく裏切る。 26 コンスタンティノープル陥落 オスマン帝国メフメト2世により、1453年コンスタンティノープル陥落したギリシャ学者大挙してイタリアフランス亡命し古代文化伝えた27 アメリカ発見 1479年アラゴン王国カスティーリャ王国スペイン王国となったジェノヴァ生まれクリストフォロ・コロンボイサベル女王パトロンにし、2ヶ月余の航海大西洋を横断新大陸発見

※この「黄金世紀のイタリア」の解説は、「ルネサンスの歴史 (モンタネッリら)」の解説の一部です。
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