黄金世紀のイタリア
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「ルネサンスの歴史 (モンタネッリら)」の記事における「黄金世紀のイタリア」の解説
1 ルネサンスとヒューマニズム イタリアは群雄割拠状態で、国家統一は目標にならなかった。エリートたちは芸術家として成熟した。 2 大帝の遺産 1250年、フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)死。イタリア統一は失敗した。1266年、ルイ9世 (フランス王)の弟シャルル・ダンジューがシチリアとナポリを占領し、アンジュー=シチリア家のシチリア王国を創始。 3 シチリアの晩鐘 1282年シチリアに内乱(シチリアの晩祷)が起こると、イベリア半島からペドロ3世 (アラゴン王)がシチリアを占領(シチリア晩祷戦争)。シャルル・ダンジューの領土は半島部のみのナポリ王国となる。 4 イタリアの情勢 14世紀初頭のイタリアは、ミラノ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリの5極構造。加えてローマに教皇庁がある。 5 ボニファティウス8世 紀元1300年を記念してボニファティウス8世 (ローマ教皇)はローマ巡礼の聖年祭を企画。ローマの商人たちを儲けさせ、教皇庁の財政の穴埋めをした。 6 ハインリヒ7世 1305年、フィリップ4世 (フランス王)の意向で、クレメンス5世 (ローマ教皇)は教皇庁を南仏アヴィニョンに移転。一方ルクセンブルク公ハインリヒが神聖ローマ皇帝に就任。しかし1312年にローマで戴冠式をしたあと急死。 7 ダンテ ダンテ・アリギエーリはフィレンツェ白派の総務に選ばれたが、1301年にシャルル・ド・ヴァロアを後ろ盾とした黒派から死刑を宣告され逃亡、ラヴェンナで死んだ。世俗イタリア語による『神曲』は流浪時代の作。 8 バビロニア捕囚 70年間のアヴィニョン教皇庁時代はバビロニア捕囚と呼ばれる。この時代、シエナのカテリーナは聖女と見なされ、教皇にも意見した。 9 コーラ・ディ・リエンツォ 1347年、コーラ・ディ・リエンツォはローマ市長に選ばれ、貴族に対抗した。しかし過激すぎてクレメンス6世 (ローマ教皇)を敵に回し、1354年反対派に殺された。 10 ペトラルカ 1302年にダンテと同様、ペトラルカの父もフィレンツェから亡命した。ペトラルカはアヴィニョンの教皇庁に就職し、ヨーロッパ最初の大人文学者、古書収集家となった。 11 ボッカチオ 1348年のペストの後、ボッカチオは『デカメロン』を書いた。彼はダンテのような社会的野心を抱かず、ペトラルカのような世渡り上手でもなかった。 12 14世紀の商人 フィレンツェの西北、プラートにダティーニは生まれた。アヴィニョンで商売を始め、以後フィレンツェに本社を置いた。彼の残した文書群は14世紀の商業の貴重な資料である。 13 教皇ののローマ帰還 1367年、ウルバヌス5世 (ローマ教皇)と教皇庁はアヴィニョンからローマへ帰還。ローマは荒廃していた。次のグレゴリウス11世 (ローマ教皇)はアヴィニョンに戻ったが、改めて1377年ローマに帰還。 14 教会分裂と公会議 1378年、イタリア人ウルバヌス6世 (ローマ教皇)が即位。フランス勢力はこの選挙を無効と主張、クレメンス7世 (対立教皇)がアヴィニョンで即位。以後40年の教会大分裂時代となる。1417年にマルティヌス5世 (ローマ教皇)の即位で、分裂は終わる。 15 教皇庁の反撃 ギリシャ正教会から教皇エウゲニウス4世 (ローマ教皇)へ、合同公会議の提案が来た。1439年のフィレンツェ公会議で東西教会の合同宣言が行われた。 16 自治都市から僭主国家へ イタリアの自治都市は当初「総代」または「執政」制だった。12世紀中頃には実質上の元首である「大法官」制となり、13世紀には終身任期の例も見られる。 17 ヴィスコンティとスフォルツァ ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティによりミラノ公国はナポリに並ぶ強国となった。その孫娘婿のフランチェスコ・スフォルツァもミラノ公国を再建した。 18 ヴェネツィア共和国 ヴェネツィアは1380年、ジェノヴァ艦隊との戦闘で勝ち、イタリアの海上権を握った。ヴェネツィアの15世紀美術にもっとも貢献したのはジェンティーレ・ベッリーニとジョヴァンニ・ベッリーニの兄弟。 19 祖国の父 15世紀にはフィレンツェの産業、とくに銀行業はヨーロッパ随一となった。コジモ・デ・メディチはフィレンツェ市の役職にしばらくついたあと引退したが、実質上の独裁者で、「祖国の父」だった。ヨーロッパで累進課税を最初に導入したのは彼である。 20 ロレンツォとジロラモ コジモの孫がロレンツォ・デ・メディチで、彼も公職につかずにフィレンツェを支配した。ジロラモ・サヴォナローラはサンマルコ修道院で説教をし、ロレンツォは僭主であると攻撃したが、ロレンツォは黙認。「雅量ある人」と綽名された。 21 メディチ文化の担い手たち 1439年に東西教会合同のフィレンツェ公会議が開かれた。イタリア人はプラトン、アリストテレスといった大学者をギリシャの学者から知った。フィレンツェの芸術家には、ブレネレスキ、ドナテッロ、マサッチオ、フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、ボッティチェリがいる。 22 エステ家治下のフェラーラ 15世紀にフェラーラを支配したのはエステ家で、ニッコロ3世・デステとその3人の息子たちだった。人文学者としてグアリーノ(イタリア語)がいる。 23 ナポリ王国 ナポリはアンジュー=シチリア家が支配していたが、1442年にシチリアからアルフォンソ5世 (アラゴン王)が攻め入り、アラゴン連合王国の一部となる。 24 教皇帰還後のローマ 15世紀後半の教皇ニコラウス5世、ピウス2世、シクストゥス4世はみな人文主義者であり、ローマの再興に貢献した。 25 跋扈する傭兵軍団 イギリス人傭兵隊長ジョン・ホークウッドなど、傭兵は金のために働く。敵がより高報酬を提示すると躊躇なく裏切る。 26 コンスタンティノープル陥落 オスマン帝国のメフメト2世により、1453年にコンスタンティノープルが陥落した。ギリシャの学者は大挙してイタリア、フランスに亡命し、古代文化を伝えた。 27 アメリカ発見 1479年にアラゴン王国とカスティーリャ王国はスペイン王国となった。ジェノヴァ生まれのクリストフォロ・コロンボはイサベル女王をパトロンにし、2ヶ月余の航海で大西洋を横断。新大陸を発見。
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