流浪時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 14:24 UTC 版)
1898年(明治31年)、山口県下関市で貿易商(ホーム・リンガー商会下関支社「瓜生商会」)を営んでいた28歳のスコットランド人、ネール・ブロディ・リード(Neil Brodie Reid)と、同地で活動していた23歳の琵琶芸者、坂田キクとの間に大阪で生まれた。出生地・大阪は母キクの実家であったが、リードから手切れ金あるいは認知料の類を受け取ることもなかったキクは、その後、九州各地を転々とする。義江が7歳程の時、現在の大分県杵築市の芸者置屋「旭楼」の藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、またはじめて日本国籍を得ることとなった。鉄工所を経営し、大分県でもいち早く自転車を販売し、金光教の熱心な信者だった水野松次郎が、座敷の余興で歌わされている義江を見かねて養子とし、地元の小学校に通わせるなど世話をしたが、養母と折り合い悪くなり小学校4年時に縁組解消。その後、大阪市北新地へ移った母につき従い、学校にも通わず給仕や住み込みの丁稚などの薄給仕事に明け暮れる。 11歳の時、父リードとはじめて対面、一旦は帰されるものの、同商会日本人支配人の有山寅槌のとりなしで以後養育費を受けることとなる。義江は有山に引き取られ、東京の元瓜生商会社員・瓜生寅の世話で暁星小学校、明治学院中等部、早稲田実業学校、京北中学など私立学校を転々とするが、この歳まで未就学だったことと、両親の愛情が欠落していたことが災いしてか、どこでも不良生徒とみなされ(実際、義江の金銭浪費の激しさと女性関係の多彩さは生涯一貫していた)長続きしなかった。 18歳の時に観た松井須磨子、沢田正二郎ら芸術座の演劇に憧れる。折から新国劇を創始した沢田に入団を認められ、沢田に与えられた「戸山英二郎」なる芸名で端役を務める。姓の戸山は当時住んでいた戸山が原(現東京都新宿区内)から、名の「英」はイギリス人(スコットランド人)を父にもつその容貌から取られた。しかし新国劇の演目はいわゆるチャンバラ物であり、明らかに日英混血の容貌の戸山英二郎に活躍の場はなかった。
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