尼子再興軍から豊臣秀吉の家臣へ
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「亀井茲矩」の記事における「尼子再興軍から豊臣秀吉の家臣へ」の解説
弘治3年(1557年)、尼子氏の家臣・湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれる。 尼子氏が毛利元就によって滅ぼされると流浪の身となった。流浪時代については定かでないところも多い。潜伏先は京都であったらしく、尼子氏の残党である尼子勝久と山中幸盛に出会ったのもこの頃(永禄11年(1568年)頃)と推察される。年齢を考えると、天正元年(1573年)9月頃に山名氏と離反するあたりから、本格的に実戦に参加し始めたものと思われる。同年、茲矩は拠点の一つであった私都(きさいち)城を任されている。また年代は定かではないが、幸盛との緊密な関係から、幸盛の養女(亀井秀綱の次女)を娶り、亀井姓を名乗ってその名跡を継いだ。 この頃の尼子氏再興の動きは、常に強大な毛利軍と寡兵で戦わねばならず、一時的な成果しか挙げられなかった。ところが新興勢力である織田信長が台頭し、中国地方を伺う情勢となると、尼子残党は織田氏家臣・羽柴秀吉の傘下に入り、播磨国を転戦した。茲矩自身は、天正5年(1577年)に、明智光秀に属して丹波国籾井郷に3,000石を知行され、松永久秀謀反後の信貴山城攻めにも参加している(『亀井家譜』)。天正6年(1578年)に尼子勝久らが上月城で孤立し、勝久は自刃し幸盛も降伏後に処刑されたが、茲矩は羽柴軍と同行していたため難を逃れた。以降も羽柴軍に属し、天正9年(1581年)には吉川経家が守る鳥取城攻略で戦功を挙げたため、因幡国鹿野城主に任命され、1万3,500石を領した。24歳の若年で前線の城主を任されていることからして、秀吉は相応の信頼を寄せていたものと考えられる。また、本能寺の変後の秀吉の中国大返しの際には後詰めとして鹿野城に残留した。 信長の死後、秀吉が台頭するとその家臣となり、豊臣政権下において、宮部継潤のもと、垣屋恒総、荒木重堅(木下重堅)、南条元続と共に「因幡衆」として働き、銀山経営、干拓、用水路開設などの行政面における手腕を発揮した。文禄・慶長の役では水軍を率い、朝鮮でも戦っている。また朝鮮での在陣中に鉄砲による虎狩を行い、得た虎を京都の秀吉の元へと送った記録が残されている。
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