尼子再興軍から豊臣秀吉の家臣へとは? わかりやすく解説

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尼子再興軍から豊臣秀吉の家臣へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:35 UTC 版)

亀井茲矩」の記事における「尼子再興軍から豊臣秀吉の家臣へ」の解説

弘治3年1557年)、尼子氏家臣湯永綱長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれる。 尼子氏毛利元就によって滅ぼされる流浪の身となった流浪時代については定かでないところも多い。潜伏先京都であったらしく、尼子氏残党である尼子勝久山中幸盛出会ったのもこの頃永禄11年1568年)頃)と推察される。年齢考えると、天正元年1573年9月頃に山名氏離反するあたりから、本格的に実戦参加し始めたものと思われる同年、茲矩は拠点一つであった私都(きさいち)城を任されている。また年代定かではないが、幸盛との緊密な関係から、幸盛の養女亀井秀綱次女)を娶り、亀井姓を名乗ってその名跡継いだこの頃尼子氏再興の動きは、常に強大な毛利軍寡兵で戦わねばならず、一時的な成果しか挙げられなかった。ところが新興勢力である織田信長台頭し中国地方を伺う情勢となると尼子残党織田氏家臣羽柴秀吉傘下入り播磨国転戦した。茲矩自身は、天正5年1577年)に、明智光秀属して丹波国籾井郷に3,000石を知行され、松永久秀謀反後の信貴山城攻めにも参加している(『亀井家譜』)。天正6年1578年)に尼子勝久らが上月城孤立し、勝久は自刃し幸盛も降伏後処刑されたが、茲矩は羽柴軍と同行していたため難を逃れた以降羽柴軍に属し天正9年1581年)には吉川経家が守る鳥取城攻略戦功挙げたため、因幡国鹿野城主に任命され1万3,500石を領した24歳若年前線城主任されていることからして秀吉相応信頼寄せていたもの考えられるまた、本能寺の変後秀吉中国大返しの際には後詰めとして鹿野城残留した信長死後秀吉台頭するとその家臣となり、豊臣政権下において、宮部継潤のもと、垣屋恒総荒木重堅木下重堅)、南条元続と共に因幡衆」として働き銀山経営干拓用水路開設などの行政面における手腕発揮した文禄・慶長の役では水軍率い朝鮮でも戦っている。また朝鮮での在陣中鉄砲による虎狩行い得た虎を京都秀吉元へ送った記録残されている。

※この「尼子再興軍から豊臣秀吉の家臣へ」の解説は、「亀井茲矩」の解説の一部です。
「尼子再興軍から豊臣秀吉の家臣へ」を含む「亀井茲矩」の記事については、「亀井茲矩」の概要を参照ください。

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