本能寺の変後
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同年の本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあったが、長益自身は城を脱出し、近江国安土を経て岐阜へ逃れたとされる。変後は甥の信雄に仕え、検地奉行などを務める。小牧・長久手の戦いでは信雄方として徳川家康に助力。蟹江城合戦では大野城の山口重政救援、下市場城攻略にも参陣しており、蟹江城の滝川一益の降伏を仲介した。戦後家康と羽柴秀吉の講和に際して折衝役を務めている。また、佐々成政と秀吉の間を斡旋したともいう。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国島下郡味舌(現在の大阪府摂津市)2000石を領した。この頃、剃髪して有楽と称す。姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。
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本能寺の変後
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天正10年(1582年)の本能寺の変後も秀吉に従い、天正11年(1583年)に秀吉が柴田勝家と対立した際には秀吉に従って出陣し、3月11日に美濃口に着陣。その後の賤ヶ岳の戦い本戦にも秀吉隊に属して戦った。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参陣。中入り部隊に於ける羽柴信吉(後の豊臣秀次)が大将を務める第4軍に目付として付けられ三河を目指した。しかし、4月9日に白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)で休息していた際に、後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢の一斉攻撃に見舞われ信吉の隊は壊滅。祐久は敗走する際に徳川軍の追撃に捕捉され討たれた。
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本能寺の変後
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天正10年(1582年)6月、三好康長・蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられる。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害した。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。 変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した。 清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉による織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)および加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大名となった。
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本能寺の変後
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天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。この後、天下を掌握した秀吉とは和解している。詳しくは人物・逸話を参照。 家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。天正14年(1586年)11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、正三位に昇叙し、康政は同月9日、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)、小田原征伐では徳川軍の先手を務めた。同年、家康が関東に移封されると関東総奉行として本多正信らを監督し、江戸城の修築に務める傍ら、上野国館林城(群馬県館林市)に入り、忠勝と並んで家臣中第2位の10万石を与えられる。館林では堤防工事(利根川東遷工事の一環)や、街道整備などに力を注いだ。 慶長4年(1599年)、宇喜多秀家の家中で家臣内での対立が起こった。宇喜多騒動と呼ばれるこの家中内紛を、越前国敦賀城主の大谷吉継と徳川家康の家臣である榊原康政が調停役として派遣された。康政が派遣された理由については、政務実務能力を買われたことは元より、康政の側室が宇喜多家臣の花房氏の縁戚であったことが考えられる。多くの処分者と離反者を出して騒動は終息したが、この時宇喜多家を離れた人材に戸川達安・岡貞綱・宇喜多詮家(坂崎直盛)および、花房氏の花房正成・花房職秀がいる。彼らは皆、徳川氏の家臣となっている。この大量離脱により、豊臣氏の有力大名であった宇喜多家は家中が混乱し、重臣らの離脱により大きく軍事力を減らし、翌年に起きた関ヶ原の戦いに影響を与えたとされている。康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰らされた。なお、花房職之の子の職直はのちに康政の養子となっているが、これも側室花房氏の縁および宇喜多騒動当時の知縁が推測されている。
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