本能寺の変後とは? わかりやすく解説

本能寺の変後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 16:14 UTC 版)

織田長益」の記事における「本能寺の変後」の解説

同年本能寺の変の際は、信忠とともに二条御所にあったが、長益自身は城を脱出し近江国安土経て岐阜逃れたとされる変後は甥の信雄に仕え検地奉行などを務める。小牧・長久手の戦いでは信雄方として徳川家康助力蟹江城合戦では大野城山口重政救援下市場城攻略にも参陣しており、蟹江城滝川一益降伏仲介した。戦後家康羽柴秀吉講和に際して折衝役を務めている。また、佐々成政秀吉の間を斡旋したともいう。天正16年1588年)、豊臣姓を下賜された。 天正18年1590年)の信雄改易後は、秀吉御伽衆として摂津国島下郡味舌現在の大阪府摂津市2000石を領したこの頃剃髪して有楽称す。姪の淀殿とは庇護者として深い関係にあり、鶴松出産の際も立ち会っている。

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本能寺の変後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/31 03:48 UTC 版)

木下祐久」の記事における「本能寺の変後」の解説

天正10年1582年)の本能寺の変後も秀吉従い天正11年1583年)に秀吉柴田勝家対立した際には秀吉に従って出陣し3月11日美濃口に着陣その後賤ヶ岳の戦い本戦にも秀吉隊属して戦った天正12年1584年)の小牧・長久手の戦いにも参陣。中入り部隊に於ける羽柴信吉(後の豊臣秀次)が大将務め第4軍目付として付けられ三河目指した。しかし、4月9日白山名古屋市守山区尾張旭市)で休息していた際に、後方から水野忠重丹羽氏次大須賀康高勢、側面から榊原康政勢の一斉攻撃見舞われ信吉の隊は壊滅祐久敗走する際に徳川軍追撃捕捉され討たれた。

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本能寺の変後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 23:41 UTC 版)

丹羽長秀」の記事における「本能寺の変後」の解説

天正10年1582年6月三好康長蜂屋頼隆と共に織田信孝四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将命じられるまた、上洛中の徳川家康大坂方面に向かうにあたり案内役長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。しかし、出陣直前本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し逆臣明智光秀娘婿にあたる津田信澄共謀者みなして殺害したその後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦い光秀討った変に際して大坂四国出陣準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田蜂屋頼隆接待受けており、住吉駐軍していた四国派遣軍とは別行動とっていた。このため大将不在時に本能寺の変報せ届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。長秀と信孝はやむをえず守り固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上大将こそ信孝としたものの、もはやその後局面秀吉主導にまかせるほか無かったまた、本能寺の変直後には長秀の佐和山城明智方についた荒木氏綱父子入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉信長の後継者推す信長嫡孫三法師支持結果として諸将秀吉による織田家事業継続認める形となった秀吉勝家とが天下争った一戦である天正11年1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉援護し戦後若狭加え越前敦賀郡南条郡一部大野郡一部を除く)および加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝領する)を与えられ、約123万石有数大名となった

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本能寺の変後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:23 UTC 版)

榊原康政」の記事における「本能寺の変後」の解説

天正12年1584年)、家康信長死後頭角現し羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し小牧・長久手の戦いに至る。この合戦秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅追い込み森長可池田恒興討ち死にさせた。また江戸時代成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉織田家乗っ取り非難する檄文書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。この後天下掌握した秀吉とは和解している。詳しく人物・逸話参照家康秀吉和睦する京都への使者立てられる天正14年1586年11月家康の上洛に随身し、家康同月5日正三位昇叙し、康政は同月9日従五位下式部大輔叙任され豊臣姓を下賜された。 天正18年1590年)、小田原征伐では徳川軍先手務めた同年家康関東移封されると関東総奉行として本多正信らを監督し江戸城修築務め傍ら上野国館林城群馬県館林市)に入り、忠勝と並んで家臣第2位10万石を与えられる館林では堤防工事利根川東遷工事一環)や、街道整備などに力を注いだ慶長4年1599年)、宇喜多秀家家中家臣内での対立起こった宇喜多騒動呼ばれるこの家中内紛を、越前国敦賀城主の大谷吉継徳川家康家臣である榊原康政調停役として派遣された。康政が派遣され理由については、政務実務能力買われたことは元より、康政の側室宇喜多家臣の花房氏縁戚であったことが考えられる多く処分者離反者出して騒動終息したが、この時宇喜多家離れた人材戸川達安岡貞綱宇喜多詮家坂崎直盛)および、花房氏花房正成花房職秀がいる。彼らは皆、徳川氏家臣となっている。この大量離脱により、豊臣氏の有力大名であった宇喜多家家中混乱し重臣らの離脱により大きく軍事力減らし翌年起きた関ヶ原の戦い影響与えたとされている。康政は伏見在番任期終わって居残り調停続けた結果国許での政務滞ることになったそのこと家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰らされた。なお、花房職之の子の職直はのちに康政の養子となっているが、これも側室花房氏の縁および宇喜多騒動当時の知縁が推測されている。

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