本能寺の変以降、晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 05:41 UTC 版)
天正10年(1582年)の本能寺の変の直後、正室のお犬の方とは死別した。 天正13年(1585年)の羽柴秀吉による四国攻めまでの間にかけて、本来は細川氏の家臣の家系であった長宗我部氏と阿波において連絡を取りあい、秀吉に抵抗した記録が残されている。また、長宗我部元親と織田信雄を連携を図って、反秀吉勢力の結集に努めているが実現できなかった。 しかし、やがて秀吉に属すると、信長からの偏諱を解消し、名を再び元の昭元に戻した。関白となった秀吉から貴人の1人として遇され、斯波義銀や山名豊国らと共に御伽衆に加えられた。 ただし、本願寺法主顕如の元へ身を寄せていたともいわれ、天正17年(1589年)3月9日に京都聚楽第の壁に書かれた落書の犯人が天満本願寺の寺内町に逃げ込んだ事件で、斯波義銀・尾藤知宣と共に逮捕、後に釈放されたとされる。 晩年は不詳の部分も多いが、天正20年(1592年)に病没したと伝わる。 子孫は三春藩秋田家の家老である年寄衆より上席として、大老または城代として代々勤めた。
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