本能寺の変後の生存説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:34 UTC 版)
「天海=明智光秀説」の記事における「本能寺の変後の生存説」の解説
明智光秀は天正10年(1582年)の山崎の戦いの後に討たれたとされているが、山崎の戦い以降に光秀が存命していたとする説や伝承がいくつかある。ただしこれらの説は、光秀が天海になったと明示されていない。 京都宇治の専修院と神明神社には、山崎の戦いの後に明智光秀を匿った伝承が残されている。 『和泉伝承誌』によると、山崎の戦いの後に明智光秀が京の妙心寺に姿を現し、その後光秀は和泉に向かったと書かれている。 本徳寺(現在は大阪府岸和田市にあるが、開基時には大阪府貝塚市鳥羽にあった)には、一時、明智光秀が潜伏していたという伝承があり、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っている。 比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録がある。 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている。 岐阜県山県市中洞には、光秀が落ち延び、「荒深小五郎」と改名して関ヶ原の戦い頃まで生き延びたという伝承がある。
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