本能寺の変以降とは? わかりやすく解説

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本能寺の変以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 14:07 UTC 版)

三好康長」の記事における「本能寺の変以降」の解説

勢い回復した長宗我部元親対抗するため、羽柴秀吉接近してこれに主従秀吉の甥・治兵衛三好信吉、のちの豊臣秀次)を養子として迎えた。なお、康長と治兵衛養子縁組信長生前天正7年1579年11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ライン光秀-元親ライン対立本能寺の変一因であったとする説もある。 天正10年9月信吉と共に紀州根来寺攻め参加している。『宗及記』では天正12年1584年8月28日津田宗及茶会出席しており、『元親記』では、天正13年1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたもの思われる没年不詳。 なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家重臣謀殺してその首級手土産長宗我部氏寝返った上、康長の四国到来呼応して再度反乱試みたが、失敗した。こちらも没年不明

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本能寺の変以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 07:33 UTC 版)

蒲生氏郷」の記事における「本能寺の変以降」の解説

天正10年1582年)、信長本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し城内にいた信長一族保護し、賢秀と共に居城日野城中野城)へ走って乗物50丁、鞍つき馬100頭、伝馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢示した光秀明智光春武田元明京極高次らに近江長浜佐和山安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈であったが、直前山崎の戦い敗死した。同年家督相続する。なお、盛本昌弘が安土城撤退する際に氏郷が安土城下町放った火が類焼し安土城炎上したとする説を発表しているが、この説に対して谷徹也は安土城発掘調査では被熱痕は主郭部からしか確認できないため、城下町からの類焼には懐疑的で盛本説成立しがたいとするその後清洲会議優位に立ち、信長統一事業引き継いだ羽柴秀吉豊臣秀吉)に従い天正11年1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益北伊勢諸城攻略あたった戦後亀山城与えられるが、自身入城せず、家臣関盛信置いた天正12年1584年)、小牧・長久手の戦いでは3月滝川一益浅野長吉甲賀衆と共に峰城、4月戸木城5月加賀野井城攻めた。特に加賀野井城攻め籠城衆を殲滅するなどの戦功挙げる同年8月合戦では氏郷は敵の侵入知らせ銃声聞き軍勢揃え松ヶ島城外に打って出た。敵の木造氏は氏郷の行動熟知しており、鉄砲狙撃したため、尾兜に弾丸三つ当たったという(『氏郷記』『勢州軍記』)。その後別働隊として羽柴秀長と共に織田信雄監視し羽柴撤退の際は殿を務めた戦後伊勢ヶ島12万石加増転封となり、秀吉から「羽柴」の苗字与えられるルイス・フロイスの『耶蘇会年報』によると、この頃大坂にてキリスト教洗礼を受けるとあるが、『十六十七世紀イエズス会日本報告書』には天正13年1585年)に大坂オルガンティノから洗礼を受けレオン霊名称したとある。一方で伊勢領主である氏郷の受洗伊勢神宮始めとする旧勢力危機感高め伴天連追放令一因になったとする研究もある。 天正13年1585年)の紀州征伐第二次太田城の戦い)や富山の役にも参戦この頃に賦秀から氏郷(うじさと)と名乗り改めているが、これは“秀”吉の諱の一字を下に置く「賦秀」という名を憚ったと『氏郷記』は伝える。なお、「賦秀」の名が記され文書上の終見は天正13年3月で、同年8月には一旦「賦綱」の署名用いているものの、9月以降は「氏郷」に統一されているため、同年7月秀吉関白任命受けて急遽改名した推測される天正14年1586年)、従四位下・侍従に任じられる天正15年1587年)の九州征伐では前田利長と共に熊井久重が守る岩石城を落とす活躍見せた天正16年1588年)には伊勢国飯高郡矢川四五(よいほのもり)で新城建築のための縄張り行い松坂城築城寺院を町の外側に置き、町筋直線ではなく角を要所造って一度多く敵兵攻め込めないようにし、ヶ島の武士商人強制的に移住させて城下町作り上げた同年4月15日正四位下左近衛少将任じられ豊臣姓(本姓)を下賜された。天正17年1589年)の方広寺大仏殿石組工事で、五条橋大門角石用の二間四方の石を近江国大津三井寺の上から切り出して重臣達が笛や太鼓拍子取って京都まで運んだ。その石は、諸大名運んだものの中で最大であったという。この年7月には領内検地行い織田信雄時代残されていた貫高制から石高制統一した天正18年1590年)の小田原征伐では、討死覚悟して肖像画残して出陣した[要出典]。韮山城落とした後、小田原城包囲軍に参加包囲中、7月2日夜に敵将太田氏房から夜襲を受ける。この時、氏郷は陣を回っていたため、甲冑を着る余裕がなく、近くにいた北川平左衛門甲冑借りたった一人乱戦の中で抱えて敵の背後回り敵兵次々と討ったという。戦後に「三階菅笠」の馬印使用許可得た(『常山紀談』)。

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