川勝継氏とは? わかりやすく解説

川勝継氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/19 22:17 UTC 版)

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川勝継氏
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄4年(1531年
死没 慶長7年3月21日1602年5月12日
別名 大膳亮、兵部大輔
戒名 永運(法名)
墓所 京都市の智恩寺
官位 備後
幕府 室町幕府 奉公衆
主君 足利義輝織田信長豊臣秀吉
徳川家康(?)
氏族 川勝氏
父母 父:川勝広継、母:某氏
兄弟 継氏、知氏、某(監物)、
某(喜内)、某(左馬丞)
正室:某氏
秀氏重氏、氏久、
某(三右衛門)
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川勝 継氏(かわかつ つぐうじ)は、戦国時代から安土桃山時代丹波武将。本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされる。

生涯

享禄4年(1531年)、川勝広継の嫡男として丹波に生まれた。丹波国桑田郡船井郡内を知行し、桑田郡今宮に住んで、室町幕府13代将軍足利義輝奉公衆として仕えた。

その後、15代将軍・足利義昭織田信長が対立すると信長に従った。天正元年(1573年)、信長の命を受けた細川藤孝に従って、山城国淀城攻め(第二次淀古城の戦い)に参加している。天正4年(1576年)からの明智光秀の丹波攻略には与力となって協力し、継氏の手勢は、同じ丹波の国衆のうち反信長を掲げた宇津氏攻めなどで活躍して信長により戦功を賞された。天正10年(1582年)の本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕え、同年9月9日には嫡男・秀氏が秀吉より丹波国何鹿郡内で3,535石を与えられている。

慶長3年(1598年)、初めて徳川家康に謁見し、秀吉死後は家康に仕えた。『寛政重修諸家譜』などでは先述の通りだが。『戦国人名事典コンパクト版』によれば、関ヶ原の戦いでは西軍に加わり所領を没収された。

慶長7年(1602年)3月21日、72歳で死去。

参考文献

  • 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
  • 『戦国人名事典コンパクト版』阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9




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