戦後の状況
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畠中城は、中村一氏の攻撃を受け強固に抵抗していたが、千石堀城の落城が伝わると自焼して落去した。小栗街道に沿う積善寺城は櫓がいくつか建ち9500兵が守備、沢城も6000兵が守備、双方とも根来衆、雑賀衆連合軍の鉄砲隊がおり、堅固な城となっていた。積善寺城には細川藤孝、細川忠興、蒲生氏郷が、沢城には中村一氏、中川秀政、高山右近らが攻めかかったが、落城しなかった。この時、豊臣秀吉の命で豊臣秀次軍は休息をとっていた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし、同月22日に積善寺城、翌23日に沢城が和睦に応じて開城した。城は放火されず残ったようで、根来衆、雑賀衆はそれぞれの領地に引き上げていった。 泉州に13か所あったと伝えられた根来寺の出城は、3日間で豊臣秀吉の軍門に下り、紀伊国に向けて進軍することになる。 この後の戦いの様子は根来・粉河・雑賀炎上及び第二次太田城の戦いも参照。
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戦後の状況
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閏4月8日に、新政府軍は義軍府の拠点である木更津と真里谷を攻撃するために、薩摩、長州、大村、佐土原の各藩兵が奈良輪に集中して木更津に向かった。しかし、木更津には徳川義軍の姿は既になく、義軍府諸隊は7日夜から8日朝にかけて大半が海上に逃亡し、主力は江戸に、一部は榎本武揚の艦隊に逃げた。また、岡山藩兵と津藩兵は真里谷に向かい、途中横田村の高田円照寺に幕府軍が集結しているという噂を聞いて、同寺へ入ったがここも敵の姿はなく、進軍して真里谷に到着して真如寺に達した。ここにも敵影はなかったものの、幕府軍が再びここを根拠地として利用することを懸念して真如寺を焼却した。 一方の義軍府側は、最初に長須賀村の泉著寺を本営として、その後真里谷に移したとされるが詳細な動向は不明であった。また、義軍府総大将福田八郎右衛門道直の戦後の動向については一切の記録が存在しない。 真里谷に駐屯していた義軍は、下総国小見川の鹿島神宮社へ屯集していたところを説諭され、小銃と弾薬を押収された上で江戸に連れ帰ったと考えられており、これらの部隊は殆ど戦闘もせずに撤退した。 また、撤兵隊指図役頭取の仙石釩三郎率いる150名弱の部隊は、詳細な行程は不明なものの、日光山に向かって進発し、宇都宮付近が既に官軍に占領されている事を知ると迂回して、下総常陸から那珂川を遡った。しかしこの部隊は閏4月14日に那珂川左岸で薩摩藩、宇都宮藩、大垣藩の奇襲攻撃を受け、13名の戦死者を出して散乱してしまった。 こうして徳川義軍は壊滅し、房総は新政府が平定する所となった。市川・船橋戦争から始まった房総の戦闘は瞬く間に官軍の圧勝という形で終結したのである。徳川義軍の敗因には、義軍府側の首脳部に確固たる人材が全く存在せず、精鋭とされた撤兵隊自体が実際には戦意に乏しく評判倒れの結果に終わったことが挙げられる。一部は函館戦争まで抗戦したものの、徳川義軍府の主力による反抗はこの五井戦争以降完全に不可能となったのである。
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戦後の状況
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2月14日、高国は義晴を奉じて坂本に逃げ去った。この逃亡には大きな意味がある。将軍や管領が京都を落ち延びることは今まで何回もあったが、評定衆や奉行人といったものまで逃げ出してしまったため、京都幕府は崩壊してしまったのである。これが後に堺公方誕生の引き金ともなった。また、この戦いで打撃を受けた武田元光は若狭に退き、若狭武田氏は中央政治への影響力を低下させる一方、消極的な姿勢を見せた六角定頼は以降義晴を支えつつも高国方から晴元方に鞍替えしていき、六角氏は中央政治への影響力を上昇させることになった。 2月16日、柳本・三好連合軍は京都に進軍、治安維持と宣撫工作に取り掛かったが、細川晴元の入京待ちとなった。
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戦後の状況
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「PZL (航空機メーカー)」の記事における「戦後の状況」の解説
第二次世界大戦中に、ポーランドの航空産業は完全に破壊され、PZL各工場も生産停止などに陥った。 戦後、共産党政府の元に再建された航空機産業は、新たにWSK (Wytwórnia Sprzętu Komunikacyjnego:交通機器工場)と命名され、PZLの名は一時消滅した。さらにソビエト連邦の影響下での中央計画経済により、およそ10年にわたって自国設計の機体が生産されることはなかった。 しかし、1950年代後半、スターリン時代の終焉とほぼ時を同じくして、PZLの名は復活することになる。1956年、複数の国営工場により、ZPLiS PZL( Zjednoczenie Przemysłu Lotniczego i Silnikowego PZL:PZL航空機およびエンジン工業連合)が結成され、新規開発の機体にPZLのブランド名を使用し始めたのである。1973年からは、若干の経済的自由も手に入れた。 この連合、ZPLiS PZLは、19の工場と1つの研究所、およびペゼテル貿易センター(CHZ Pezetel、ポーランド航空産業の貿易業務を一手に引き受ける機関で、『ペゼテル』はPZLの音を表したもの)によって形成されていた。1970年代には、いくつかのWSKの工場も、その名前にPZLの略称を冠するようになった。 1989年、共産党政権が倒れた後、すべての工場は独立した企業となったが、それぞれがなおもPZLの名を使い続けることとなった。 現在、戦前までPZLの中心であったかつての第一工場はPZLヴァルシャヴァ=オケンチェ(PZL Warszawa-Okęcie、ヴァルシャヴァはワルシャワの現地語表記)となっている。また、旧第二工場はPZLミェレッツとして存在するが、2007年に買収されてからはシコースキー・エアクラフトの傘下となっている。SZDからPZL=ビエルスコ(PZL-Bielsko)と名前を変えたグライダー部門は、グライダー専門メーカーのアルスターPZLグライダー(Allstar PZL Glider)として事業を継続しており、多くの国で利用されている。
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戦後の状況
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「比叡山焼き討ち (1571年)」の記事における「戦後の状況」の解説
信長は戦後処理を明智光秀に任せ、翌13日午前9時頃に精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。その後三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していく。延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収され明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分した。この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々与力らをこの地域に派遣して治めることになる。特に光秀と信盛はこの地域を中心に支配することになり、光秀は坂本城を築城することになる。 一方、延暦寺側では正覚院豪盛らが逃げ切ることができ、甲斐の武田信玄に庇護を求めた。信玄は彼らを保護し延暦寺を復興しようと企てたが、元亀4年(1573年)に病死。実現をみるに至らなかった。天正7年(1579年)6月の日吉大社の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長によって綸旨が押さえられ、再興の動きは停止されてしまったとある。 その後本能寺の変で信長は倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、簡単には許されなかった。山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われている。 そして小牧・長久手の戦いで出軍している秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、ついに天正12年(1584年)5月1日、僧兵を置かないことを条件に正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として青銅1万貫が寄進された。比叡山焼き討ちの約13年後のことであった。
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戦後の状況
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戦後は、車両・線路ともに荒廃しており、可動不可の車両が続出した他、車両同士の追突事故が相次いだ。 モハ1001形については、1947年(昭和22年)に住ノ江検車区内で追突事故を起こしたモハ1001形1013は、復旧されずに廃車され、電装機器はモハ1251形1272に転用された。また廃車された車両の空き番を埋める為、1949年(昭和24年)にモハ1001~1011に整理改番された。 モハ1081形については、モハ1090が、接触事故の復旧工事の際に主電動機をモハ1001形のものに戻し、元のモハ1007に改番された。木造車として残ったモハ1081・1085・1086は、1947年(昭和22年)にモハ1241形1241~1243に改番されている。 クハ1801形については、火災復旧の半鋼製車クハ1807・1808の2両をクハ1811形1811・1812に改番の上、残った車両はクハ1801~1810に改番されたが、クハ1805(2代目)は改番直後に事故廃車となり、クハ1810がクハ1805(3代目)に改番された。1949年(昭和24年)には、1947年(昭和22年)に入線したモハ1501形(国鉄モハ63形割り当て車)と組むため、ブレーキを制御管式のJ三動弁(AVRブレーキ)から元空気溜管式のA動作弁(ATAブレーキ)に交換し、20m級大型電動車と17m級木造制御車という不釣り合いな編成を組んで使用された。 クハ1811形は、1950年(昭和25年)にモハ1081形の火災復旧車モハ1087・1088を電装解除の上、クハ1811形1813・1814に編入した結果、1811~1814の4両となったが、クハ1801形と同様にブレーキを交換して、モハ1501形の制御車として使用された。 1951年(昭和26年)、モハ1009~1011が荷物電車に改造されてモニ1045形1045~1047に改造された。しかし、鮮魚輸送によって車体が腐食した為、1959年(昭和34年)にモハ1005~1007の車体を改造して差し替えられ、元のモニ1045形は、モハ1005~1007として廃車となった。 モハ1241形は、1955年(昭和30年)に電装解除されてクハ1881形となり、加太線で使用された。その後、1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけて廃車されている。 1960年(昭和35年)には、モハ1501形1513~1520が電装解除されてクハ1951形1951~1958となった事により、クハ1801・1811形とのペアは解消され、クハ1801形は、1805~1809の5両がブレーキ弁を元に戻して再びモハ1001形と組むようになった一方、1801~1804については、ブレーキ弁そのままであった。またクハ1811形は、同形車体のモハ1201形と組む様になった。
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戦後の状況
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敗れた光秀は1月21日に京都に入り、その後坂本城に帰還した。退却途中の1月18日、光秀は小畠永明に対し林某との軍事的連携や本拠の維持を命じ、同月29日付で信長は川勝継氏に対し、不利な状況で忠節を尽くしたことを賞している。2月18日、光秀は坂本城を出陣し丹波に入国したが、短期間で引き揚げた。この時、光秀に協力した曽根(京都府京丹波町)の農民たちに税の免除をし、論功行賞を行って荒木藤内の戦功を賞した。
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戦後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 05:07 UTC 版)
この戦いで、明智光秀率いる織田軍による丹波征討戦は事実上終了した。 これは黒井城落城15日後の8月24日付けで、戦勝祈願した京都の威徳院へ送った書状である。内容は、勝利することができたので約束通り200石を奉納すると伝えている。また、文中には赤井忠家の居城であったと思われている高見城がまもなく落城し、一両日中には和田方面に進軍するという記載がある。神仏を重んじ、生真面目な光秀の性格を伺わせる書状となっている。書状の中段に「高見之事、執詰陣候、」という記載も見受けられる。 上記書状のように若干の反対勢力との小規模な戦闘や和睦などを片付けて、光秀、細川藤孝らは10月24日に安土城に凱旋し、織田信長に拝謁して丹波平定の仔細について報告。翌天正8年(1580年)に信長は丹波を光秀に、丹後を藤孝に与えることになった。
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戦後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:53 UTC 版)
第二次世界大戦で敗戦したことにより、1945年(昭和20年)8月に陸軍予科士官学校は解散され、軍需産業は壊滅状態となった。しかし陸軍予科士官学校跡地や中央工業新倉工場跡地などが米軍に接収され、キャンプ・ドレイクとして米軍第一騎兵師団約4,000人が進駐し、1960年(昭和35年)3月には陸上自衛隊朝霞駐屯地が開設されたことから、戦後も軍需都市的な側面が残った。 一方、本田技研工業が1952年(昭和27年)3月に「日興精機工業」の工場を買収して白子工場を開設し、1953年(昭和28年)7月に中央工業新倉工場跡地の一部を買収して大和工場を開設するなど民需工場の進出も相次ぎ、当駅周辺は新たな発展を遂げた。 その後、米軍基地返還跡地に日本住宅公団が1965年(昭和40年)4月「西大和団地」を開設したのを皮切りに、「南大和団地」や「諏訪原団地」が開設された。「米軍新倉倉庫」となっていた中央工業新倉工場跡地の一部が1971年(昭和46年)6月23日に返還され、翌1972年(昭和47年)にその土地を取得した伊藤忠商事が「シーアイハイツ和光」として再開発を行うなど、返還された米軍基地の跡地には多数の団地開発が進められた。 また、1941年(昭和16年)7月20日に開院した白子陸軍病院が1945年(昭和20年)12月1日に厚生省に移管され、一般市民向けの医療施設「国立埼玉病院」として存続し、米軍基地返還跡地の一部に1967年(昭和42年)3月に理化学研究所(理研)が大和研究所を開設するなど、公共系の施設も当駅周辺に立地した。 さらに、松ノ木島地区や丸山台地区などで土地区画整理事業が進められ、新興住宅地としても発展した。 この間、1951年(昭和26年)10月に町制施行を受けて「大和町駅」(やまとまちえき)に改称された。
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戦後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:05 UTC 版)
この戦いの直後、松永久秀は大和に入り、5月23日までに鷹山・十市・筒井・吐田・宝来などの反三好方の諸城を落城させた。6月2日には、六角義賢が長慶と和睦して近江へ引き上げ、6月22日、足利義輝が京都に戻った。畠山氏から再度奪った高屋城には三好康長ら三好実休の重臣たちが入り、南河内の支配を行うこととなる。 教興寺の戦いで勝利した三好氏は、大和・南河内から畠山氏の勢力を排除し、両国における支配を確かなものにしていった。畠山氏の高屋城への復帰は、永禄11年(1568年)9月の足利義昭・織田信長の上洛を待つこととなる。
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戦後の状況
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太平洋戦争中の酷使により鉄道車両の多くは荒廃し、米軍の空襲により多くの車両が焼失した。終戦後は旅行の制限がなくなったことにより、さらに混雑が激化し、車両の荒廃も加速度的に進んでいった。 戦後の混乱も沈静化した1950年(昭和25年)から更新修繕が行われ、戦前同様の状態に復していったが、1952年(昭和27年)からは、桜木町事故の教訓を取り入れた更新修繕IIに切り替えられた。
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戦後の状況
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「国鉄ワキ700形貨車」の記事における「戦後の状況」の解説
本形式は、4両が戦中に廃車となり、1945年(昭和20年)8月に日本が敗戦すると、進駐してきた連合国軍により日本軍が解体されたため、軍の所有物であった本形式は、26両が大蔵省に移管された。本形式は本来の用途を失ったものの、その収容力の大きさからワキ1形などと同様荷物車代用や急行便用として使用されるケースも多くなり、戦後間もない頃には代用客車としても使用されたようである。荷物車代用として使用された車両の中には、車内に電灯を取り付け、妻板に貫通扉を設けたものがある。 本形式のうち2両(ワキ704, ワキ709)は連合国軍に接収され、連合軍専用客車として改装された。詳細については後述する。 また、1952年(昭和27年)には、配給車代用として使用されていた無蓋貨車トキ10形を配給電車クヤ7形(後のクヤ9210形)に改造するにあたり、トキ10形のアーチバー型台車TR20と本形式5両のTR24を交換することとなった。台車交換車の最高速度は、65km/hに制限された。対象となった車両の番号は、一部(ワキ701, ワキ702, ワキ710)が確認されている。 所有権は1958年(昭和33年)に国鉄に移り、汎用の大型有蓋車として運用されたが、晩年はその収容力と内蔵クレーンを活かして救援車代用とされるものが多かった。運用に制限のついた台車交換車はあまり使用されることなく、早期に事業用に転用されたようである。形式消滅は、1977年(昭和52年)である。
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戦後の状況
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「八上城の戦い (1578年)」の記事における「戦後の状況」の解説
八上城を落城させ多紀郡を制圧すると、光秀は氷上郡の黒井城攻略に向け、氷上郡全域に軍勢を派遣した。 その一方で、7月19日、光秀は宇津氏の宇津城(京都市)を攻略。丹後近くの天田郡鬼ヶ城(福知山市)への攻撃も開始した。 同年8月9日、光秀は赤井氏・荻野氏の黒井城を落城させ、9月下旬には黒井城近くの国領城(三尾山城、丹波市)を落城させた。これと並行して細川藤孝が丹後攻略を進めており、10月24日、光秀は丹波・丹後の平定を安土の織田信長に報告した。この後、丹波は光秀が支配することとなるが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変とその後の敗死によりその支配は終わりを迎えた。
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