丹波平定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 13:55 UTC 版)
織田氏の丹波平定時の酒井氏の動向は不明な部分が多いが、この当時も信政をはじめ、一族共に波多野秀治に仕えており、重臣である信政は主君の意向に従い、織田氏に抵抗したものと考えられる。永禄年間に父の頼重が亡くなっているため、天正以前に栗栖野城主となるが、天正七年(1579年)に討死にしたとも、また、伝承によれば天正三年(1575年)11月15日に病死したとも伝わる。そのため、弟の依信は城代であったと考えられ、信政の嫡男である善右衛門信定の後見人でもあったとされる。加えて、本庄氏への酒井姓付与の際には、信政の花押はなく、代わりに依信が署名しているため、少なくとも天正三年以降に栗栖野氏の家督を後見していたと推定される。依信は主君波多野秀治が籠る八上城において籠城したが、戦の最中に病死した。そして、八上城の落城と同時に城は陥落し、信定は城を立ち去り、栗栖野の地に農民として土着した。渡瀬氏によれば、慶長年間には既に村役に預かっており、帰農化は急速に進んでいたとされ、嫡流の子孫は城山の麓の宅地に居住したという。なお、酒井氏没落後の真南条は豊臣氏家臣の生熊長勝の知行地となっている。
※この「丹波平定」の解説は、「酒井信政」の解説の一部です。
「丹波平定」を含む「酒井信政」の記事については、「酒井信政」の概要を参照ください。
- 丹波平定のページへのリンク