長澤氏
外山家
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外山家(とやまけ)は、藤原北家日野家の支流である公家・華族の家。公家としての家格は名家、華族としての家格は子爵家[1]。家紋は鶴丸。
注釈
出典
- ^ 小田部雄次 2006, p. 334.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 338.
- ^ 『華族畫報』 p.1056 華族畫報社、1913年10月
- ^ 人事 1940, p. ヤ4.
- ^ 外山英資『華族名簿』昭和4年5月31日調
- ^ 外山英資『華族名簿』昭和7年5月20日調
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 427.
- ^ 外山英資『華族名簿』昭和18年7月1日現在
- ^ 『人事興信録 第15版 下』 ト之部 p.3 人事興信所、1948年
長澤氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 14:19 UTC 版)
宗家の中澤氏は鎌倉時代の地頭の系譜を汲んだ旧来の武家勢力であり、奉公衆として足利家に仕えるなど、丹波国に影響力を及ぼしてきた。しかし、15世紀後半から台頭してきた新興勢力の波多野氏に対抗して大山城を築くなどしたが、永正年間の福徳貴寺合戦では波多野氏に敗れた。このときの当主は、日向守元綱(義遠の祖父)であり、波多野方の武将に討ち取られてしまった。それによって大山庄の代官職を奪われてしまうが、以後中澤氏は波多野氏の重臣となったことで、明智光秀の丹波平定まで存続した。
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長沢氏
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南北朝時代には築かれていたようだが、誰が築いたのかは伝わっていない。土岐氏の流れを汲み、鎌倉時代末から南北朝時代 (日本)に亘って井口氏や野尻氏らと共に『太平記』にその名が見える長沢氏が発祥したのがこの辺りだが、彼らがこの城に絡んでいる可能性もある。『天文天正年間婦負新川両郡守護并古城記』には『太平記』の頃野崎長沢守なる者が拠ったと記してある。その一方『富山古城記』では『太平記』の頃に野尻長子なる者が拠ったとしている。ちなみに長沢氏の後裔に戦国時代の武将で上杉謙信の家臣であった越中国湯山城主長沢光国がいる。湯山城は元々は八代氏の居城であり、長沢氏は元々は越中国海老瀬城に拠っていたとみられ、湯山城を落とした上杉謙信によって防備を任せられたものである。海老瀬城に拠った城主としては長沢善慶なる者が記録に残っているが、それ以外は詳らかでない。
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