西園寺家とは? わかりやすく解説

西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/22 11:16 UTC 版)

西園寺家
本姓 藤原北家閑院流
家祖 藤原通季[1]
種別 公家(清華家)[1]
華族(侯爵公爵)[2]
出身地 山城国
主な根拠地 山城国
伊予国宇和郡
東京市麹町区一番町
静岡県庵原郡興津町
東京市神田区駿河台
東京都杉並区高井戸東
著名な人物 西園寺公経
西園寺実兼
永福門院(西園寺鏱子
後京極院(西園寺禧子
西園寺公重
西園寺公望
支流、分家 菊亭家(清華家,侯爵)[2]
清水谷家(羽林家,伯爵)
室町家(羽林家,伯爵)
橋本家(羽林家,伯爵)
大宮家(羽林家,子爵)[2]
常磐井家(男爵)[2]
洞院家(公家,絶家)
伊予西園寺氏(武家)
内ヶ島氏(武家)
冷泉家[2]
竹林院氏[2]
凡例 / Category:日本の氏族

西園寺家(さいおんじけ)は、藤原氏北家閑院流公家華族である。公家としての家格清華家[1]。華族としての家格ははじめ侯爵家だったが、西園寺公望の勲功により、後に公爵家に陞爵[3]

支流菊亭家洞院家室町時代絶家)・伊予西園寺氏などがある。家紋(定紋)は左三つ巴を使用。


歴史

封建時代

閑院流の祖である閑院太政大臣藤原公季の五世の孫の藤原公実の四男の通季を祖とする[1][4]三条家徳大寺家とは姉妹家にあたる(三条家は藤原公実の次男の実行の子孫、徳大寺家は公実の五男の実能の子孫)。

家名は、4代公経元仁元年(1224年)に北山山荘に建立した西園寺(北山殿)にちなんでいる[注釈 1][1]

藤原通季保安年間(1120年 - 1124年)に鳥羽上皇の御厩別当になっており、ついで通季の曾孫西園寺公経正治元年(1199年)まで後鳥羽上皇の御厩別当になっている。さらに寛元4年(1246年)に西園寺公相後嵯峨上皇の御厩別当になっており、これ以降は中絶の時期はあれど、院の御厩別当の地位は西園寺家の世襲となり、その立場戦国時代江戸時代にも変わることがなかった[6]

公経源頼朝同母姉妹坊門姫の全子をとし、加えて摂家将軍藤原頼経」の祖父に当たることから、鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため、承久の乱に際しては幕府に内応する恐れがあるとして朝廷によって幽閉されるが、かえって乱後に幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣にまで昇進して家格を高めることに成功した。

公経より公宗までは朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内・立后させ、天皇外戚として一時は摂関家をも凌ぐ権勢を振るった[5]実兼大覚寺統に接近し、亀山法皇後醍醐天皇に娘を入れたが、子の公衡以降は反・幕府的態度を取る大覚寺統からは離反し、次第に持明院統との関係を深めている。

また、藤原実宗(公経の父)は藤原師長から桂流・西流の琵琶の奥義を得て以来、琵琶の家として知られた。特に後鳥羽天皇以来、琵琶は天皇が習得する必須の楽器とされるようになってから宮廷でも重要視され、西園寺公相後深草天皇の琵琶の御師(御琵琶師)とされて以降、歴代天皇は西園寺家の当主から琵琶を習う慣例となり、政治的のみならず、文化的分野でもリードするようになった[7]

この時期は西園寺家の女性の成員も文化面で活躍しており、伏見天皇中宮の永福門院(西園寺鏱子)は京極派を代表する大歌人で、後醍醐天皇中宮の後京極院(西園寺禧子)も勅撰歌人である。

鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は退勢に陥る。公宗北条氏残党である北条泰家(時興)をかくまい、後醍醐天皇を暗殺して持明院統後伏見上皇を擁立する[8]謀叛計画したが、弟公重密告によって発覚したために処刑され、家は公重が継承した。やがて公重が南朝へ参候したため、公宗の遺児実俊右大臣に昇って家名を再興したが、往時の権勢は失われた。またこの頃、一族の公俊が家領の伊予国宇和郡に下向して土着し、伊予西園寺氏となった。近世初期の実晴細川忠隆の長女を御台所に迎えたが、その遺産は家政の基盤となる。以後は当主夭折が相次ぎ、他家からの養子が続いた。

家業は四箇の大事(節会官奏叙位除目)・有職故実雅楽琵琶)。琵琶の伝授は江戸時代に597石(実高約400石)の微禄しかなかった西園寺家にとって重要な収入源になっていた(西園寺公望は琵琶が嫌いで家臣たちを心配させたという。)[9]。西園寺家には官位持ちの諸大夫 5家と 4家が家臣として仕えていた[9]一条家家礼だった[10]

明治以降

幕末に同じ閑院流徳大寺家から養子に入った公望は、戊辰戦争で「山陰」・「東山」・「北陸各道」に出征して倒幕に尽し、明治維新に貢献した。賞典禄300石を賜る[11]

明治2年1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、西園寺家も旧公家として華族に列した[12][13]

明治3年1870年)12月10日に定められた家禄は、現米で465石8斗[14][15][注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄の引き換えで支給された金禄公債の額は2万3682円10銭2厘(華族受給者中200位)[17]。当時の公望の住居は東京市麹町区一番町にあった[14]

1884年明治17年)7月7日に公望は、旧清華家として侯爵を授けられた[18]

公望は、明治3年にフランス留学から帰国して以降、駐オーストリア、駐ドイツ、駐ベルギー各公使、賞勲局総裁、貴族院副議長、枢密顧問官などを歴任した後、第2次伊藤内閣文部大臣外務大臣として入閣。第2次松方内閣では外務大臣、第3次伊藤内閣では文部大臣として入閣し、枢密院議長も務めた。ついで政友会総裁となり、明治39年と明治44年に内閣総理大臣を二度務めた後、1920年大正9年)9月7日に勲功により公爵(しょうしゃく)した[18][11]

公望は元老として明治後期から昭和初期の政界に重きをなした。特に明治後期から大正初期に西園寺公望と桂太郎が交互に内閣総理大臣を務めた時代を桂園時代と呼ぶ。リベラリストだが、共産主義は受け入れず、君主制を拒否しないコスモポリタン・自由主義者の立憲君主主義者だった[19]。昭和前期の西園寺公爵家の住居は静岡県庵原郡興津町東京府東京市神田区駿河台にあった[4]

男子がない公望は、長女新(明治19年12月20日生、大正9年1月没)の夫西園寺八郎毛利元徳公爵の八男)を養子に迎え、公爵位を継承させた[20][11]

八郎の子は不二男(明治43年11月26日生、昭和61年5月31日没)。不二夫の夫人春子(大正9年1月5日生)は鮎川義介長女[11]。不二男の長男は公友(昭和18年6月22日生)。公友の夫人延子(昭和22年1月2日生)は清原薫三女[11]。公友の代の住居は東京都杉並区高井戸東にあった[21]

公友の長男は直之(昭和54年9月25日生)[11]

歴代当主

代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考
1 藤原通季
(1090年-1128年)
藤原公実の三男 正三位 中納言
2 藤原公通
(1117年-1173年)
先代の子 正二位 大納言
3 藤原実宗
(1145年-1214年)
先代の長男 正二位 内大臣(1205-1206)
4 西園寺公経
(1171年-1244年)
先代の長男 従一位 太政大臣(1222-1223)
5 西園寺実氏
(1194年-1269年)
先代の子 従一位 太政大臣(1246-1247)
6 西園寺公相
(1223年-1267年)
先代の子 従一位 太政大臣(1262)
7 西園寺実兼
(1249年-1322年)
先代の長男 従一位 太政大臣(1292-1293)
8 西園寺公衡
(1264年-1315年)
先代の長男 従一位 左大臣(1309)
9 西園寺実衡
(1288年-1326年)
先代の子 正二位 内大臣(1324-1326)
10 西園寺公宗
(1310年-1335年)
先代の子 正二位 大納言
11 西園寺実俊
(1335年-1389年)
先代の子 従一位 右大臣(北朝)(1366-1367)
12 西園寺公永
(1353年-1390年)
先代の子 正二位 大納言(北朝)
13 西園寺実永
(1377年-1431年)
先代の子 従一位 右大臣(1420-1421)
14 西園寺公名
(1410年-1468年)
先代の子 正二位 大納言
15 西園寺実遠
(1434年-1495年)
先代の子 従一位 左大臣(1483-1487)
16 西園寺公藤
(1455年-1512年)
先代の子 正二位 右大臣(1506-1507)
17 西園寺実宣
(1496年-1541年)
先代の子 従一位 右大臣(1537-1540)
18 西園寺公朝
(1515年-1590年)
先代の子 従一位 左大臣(1557-1576)
19 西園寺実益
(1560年-1632年)
先代の子 従一位 右大臣(1620-1621)
20 西園寺公益
(1582年-1640年)
先代の子 従一位 内大臣(1631-1632)
21 西園寺実晴
(1601年-1673年)
先代の子 従一位 左大臣(1667-1668)
22 西園寺公満
(1622年-1651年)
先代の子 従三位 中納言
23 西園寺実尚
(1645年-1661年)
先代の子 正四位下 近衛中将
24 西園寺公宣
(1664年-1669年)
先代の叔父
(21代実晴の子)
従五位上 侍従
25 西園寺公遂
(1663年-1678年)
先代の兄
(21代実晴の子)
従三位 左近衛中将
26 西園寺実輔
(1661年-1685年)
先々代の娘の婿養子
(鷹司房輔の子)
従三位 権中納言
27 西園寺致季
(1683年-1756年)
先代の子 従一位 左大臣(1745)
28 西園寺公晃
(1702年-1770年)
先代の子 従一位 内大臣(1755)
29 西園寺賞季
(1743年-1800年)
先代の子 従一位 右大臣(1796)
30 西園寺公兼
(1765年-1772年)
先代の子 従五位下 侍従
31 西園寺実韶
(1778年-1787年)
29代賞季の養子
(一条輝良の子)
従三位 左近衛中将
32 西園寺公氏
(1777年-1793年)
29代賞季の子 正四位下 左近衛中将
33 西園寺寛季
(1787年-1856年)
29代賞季の養子
(二条治孝の三男)
正二位 権中納言
34 西園寺治季
(1809年-1826年)
先代の子 従三位 左近衛中将
35 西園寺公潔
(1818年-1836年)
33代寛季の養子
(有栖川宮韶仁親王第4王子)
従三位 左近衛中将
36 西園寺師季
(1826年-1851年)
34代治季の子 正三位 右近衛中将
37 西園寺公望
(1849年-1940年)
先代の養子
(徳大寺公純の次男)
従一位 12・14代内閣総理大臣(1906-1908、1911-1912)
貴族院議員
侯爵公爵
38 西園寺八郎
(1881年-1946年)
先代の養子
(毛利元徳の八男)
従二位 宮内省官僚
貴族院議員
公爵
39 西園寺不二男
(1910年-1986年)
先代の三男 東都銀行頭取
日産興業社長・会長
40 西園寺公友
(1943年-存命中)
先代の長男 地球環境情報センター取締役

系譜

西園寺家の所領・家禄・財産

鎌倉時代に西園寺家は諸国の知行国主となり、その所領は日本全国に存在したが、西園寺家が特に執着していたのは海上交通に面する所領だった[22]。最も重要な所領は鎌倉時代を通じて事実上家領として支配してきた伊予国であり、嘉禎2年(1236年)には西園寺公経幕府に強要して、橘公業の同国宇和郡の知行を止めさせて、自らの所領にしている[23]南北朝動乱期には一円支配下に置いた宇和郡に、その一流の立間氏や松葉氏を土着させて、室町時代以降に更にその足場を固めて伊予国戦国大名化した(伊予西園寺氏[24]

江戸時代の所領の表高は597だったが、実高は400石程度しか取れなかったという[9]国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の西園寺家領は以下の通り。(5村・597石1斗4升

  • 山城国葛野郡西院領のうち - 22石1斗4升
  • 山城国乙訓郡今里村のうち - 104石
  • 山城国乙訓郡大原野村のうち - 200石
  • 山城国紀伊郡吉祥院村のうち - 1石
  • 山城国紀伊郡東九条村のうち - 270石

維新後、戊辰戦争の軍功により賞典禄300石を永世下賜された[25]

所領は、明治維新後に465石8斗の現米の家禄に換えられたを経て[15]、最終的に1876年(明治9年)8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と賞典禄は2万3682円10銭2厘の金禄公債と交換された[17][16]

1894年(明治27年)より天皇の御手許金で「旧堂上華族恵恤賜金」が創設され、その利息が旧・堂上華族を対象に分配されるようになった。これにより西園寺家は旧・堂上家の公侯爵家として900円の配当を年2回受けることができた[26]

西園寺文庫

西園寺家の文書や蔵書などは、以下の場所などに所蔵されている西園寺家は、京都大学立命館大学学習院大学と関係が深い。[要出典]

  • 西園寺文庫学習院大学
    1994年平成6年)西園寺家に代々伝わる文書類が、直系の子孫である西園寺公友から寄贈され、公友の希望によって「西園寺文庫」と名付けられた。なお、これらの文書は寄贈する以前、西園寺家と姻戚関係がある住友家有芳園(京都市)で保存されていた。
  • 西園寺文庫立命館大学京都府京都市
    1938年昭和13年)に立命館大学に設置された「西園寺公文庫」を前身とする。西園寺公望が懐集した蔵書(それとは別に大学が後年独自に買い集めた物を含む)が収められている。総冊数13,072[27]
  • 陶庵文庫京都大学京都府京都市
    公望が懐集した蔵書など。清風荘(公望の京都別邸)とともに、娘婿の八郎および住友家より寄贈された。また、同大学には公望の実弟である中院通規が中院家に代々伝わる文書類を寄贈しており、通規の希望により「中院文庫」と名付けられている。

脚注

  1. ^ 当初の景観は法成寺をもしのいだというが、南北朝時代には早くも荒廃したため[要出典]、寺地は足利義満に譲られ、やがて鹿苑寺(金閣寺)が建てられた[5]
  2. ^ 明治3年(1870年)12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである[16]
  1. ^ a b c d e 太田 1934, p. 2429.
  2. ^ a b c d e f 太田 1934, p. 2432.
  3. ^ 小田部雄次 2006, p. 57.
  4. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 3.
  5. ^ a b 太田 1934, p. 2430.
  6. ^ 網野善彦 2008, p. 309.
  7. ^ 豊永聡美『中世の天皇と音楽』(吉川弘文館2006年平成18年)) ISBN 4-642-02860-9 P59 - 66・82 - 85・186 - 189
  8. ^ 近年、公宗が擁立しようとしたのは光厳上皇であったとする見解もある(家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」桃崎有一郎山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都』 文理閣〈平安京・京都叢書4〉、2016年平成28年)10月 ISBN 978-4-89259-798-5)。
  9. ^ a b c 岩井忠熊 2003, p. 3.
  10. ^ 刑部芳則 2018, p. 5.
  11. ^ a b c d e f 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 621.
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  13. ^ 浅見雅男 1994, p. 24-25.
  14. ^ a b 石井孝太郎 1881, p. さ之部.
  15. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 7.
  16. ^ a b 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
  17. ^ a b 石川健次郎 1972, p. 49.
  18. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 323.
  19. ^ 小田部雄次 2006, p. 228.
  20. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 4.
  21. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 620.
  22. ^ 網野善彦 2008, p. 297 - 298.
  23. ^ 網野善彦 2008, p. 298.
  24. ^ 網野善彦 2008, p. 299.
  25. ^ 岩井忠熊 2003, p. 16.
  26. ^ 刑部芳則 2014, p. 174.
  27. ^ 立命館大学 蔵書冊数 [リンク切れ]

参考文献

参考資料

関連項目

外部リンク


西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:27 UTC 版)

清華家」の記事における「西園寺家」の解説

藤原北家閑院流同じく実の三男権中納言西園寺通季1090年 - 1128年)を祖とする。通季は母藤原光子正妻だったため嫡子とされたが、早世したため兄弟中でも官位が最も低かった四代目太政大臣公経に至って、親幕派として承久の乱権勢誇り摂関家から外戚地位関東申次世襲職を奪った。公経は京洛北山氏寺西園寺建立して家名の由来となった

※この「西園寺家」の解説は、「清華家」の解説の一部です。
「西園寺家」を含む「清華家」の記事については、「清華家」の概要を参照ください。


西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:55 UTC 版)

半分、青い。」の記事における「西園寺家」の解説

有限会社西園寺不動産」を営む、町一番の資産家。センキチカフェの大家だが、後述する麗子結婚により、賃料取らないようになっている西園寺 龍之介さいおんじ りゅうのすけ) 演 - 矢本悠馬幼少期大竹悠義) 鈴愛の同級生1971年4月27日10時13分、出生時体重3800gで誕生1980年小学3年時容姿性格から鈴愛に「反則ブッチャー」と呼ばれて以来、「ブッチャー」があだ名として定着高校生時標準体型変わって呼ばれ続けている(このため本名である龍之介呼ばれることはなく、鈴愛や律に本名忘れられる)。 鈴愛の名前をからかい彼女と喧嘩になることが多いが、鈴愛に好意持っており関わりたいのでからかっていると律から推測されている。 自身与えスーパーカー消しゴム目当てで近づいて来る友人が多いなか、律のことは物品やり取り伴わない真の友人だと思っている。 朝露高校進学後は、マナ接近する目的バドミントン部所属するが、彼女が他の部員交際始め失恋する。高校3年時には東京私立大学志望するが、高校卒業後も律と離れたくないために志望変更し推薦京都私立大学である舞鶴学院大学進学卒業後は、名古屋の「名央建設」に勤務する2000年春「ともしび」にて生にプロポーズするも、2002年時点になって結婚踏み切れずにいたが、2008年春時点では生と結婚し家業不動産業継いでいる。 西園寺 満(さいおんじ みつる) 演 - 六角精児 龍之介の父西園寺 富子(さいおんじ とみこ) 演 - 広岡由里子 龍之介の母。 西園寺 麗子さいおんじ れいこ) 演 - 山田真歩幼少期幸田雛子龍之介の姉。龍之介同じく自己中心的なずるさを持つ。幼少期メルシーという愛犬を、2008年時点小型犬を飼う。 40歳近くまで独身だったが、健人求愛受け入れ、彼と結婚する

※この「西園寺家」の解説は、「半分、青い。」の解説の一部です。
「西園寺家」を含む「半分、青い。」の記事については、「半分、青い。」の概要を参照ください。


西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 03:29 UTC 版)

蒼の封印」の記事における「西園寺家」の解説

本作では天皇家千家よりも古い家柄であるとし、政界財界のどちらにも大きな影響力を持つ。

※この「西園寺家」の解説は、「蒼の封印」の解説の一部です。
「西園寺家」を含む「蒼の封印」の記事については、「蒼の封印」の概要を参照ください。


西園寺家(さいおんじけ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 08:14 UTC 版)

デイズシリーズ」の記事における「西園寺家(さいおんじけ)」の解説

世界が母の踊子2人で暮らす3階建てアパート一室最寄の駅は、湾岸新線手原坂下駅玄関から直結し台所バスタブ足を伸ばして入れないバスルームなど、全体間取りこそ伊藤家桂家より狭いものの、学習机ベッド置いてなおガラステーブルを置け広さ有する世界自室は、誠とのセックス用いられる

※この「西園寺家(さいおんじけ)」の解説は、「デイズシリーズ」の解説の一部です。
「西園寺家(さいおんじけ)」を含む「デイズシリーズ」の記事については、「デイズシリーズ」の概要を参照ください。


西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 16:30 UTC 版)

不適切シリーズ」の記事における「西園寺家」の解説

表向きは「財閥大富豪政治家に強い影響力がある」名門家系魔術面でみれば、六百年続く魔術家系でもある。総理経由警察組織を動かす事も出来る。

※この「西園寺家」の解説は、「不適切シリーズ」の解説の一部です。
「西園寺家」を含む「不適切シリーズ」の記事については、「不適切シリーズ」の概要を参照ください。


西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 01:35 UTC 版)

鎌倉時代の人物一覧」の記事における「西園寺家」の解説

西園寺公経……藤原実宗の子従一位太政大臣

※この「西園寺家」の解説は、「鎌倉時代の人物一覧」の解説の一部です。
「西園寺家」を含む「鎌倉時代の人物一覧」の記事については、「鎌倉時代の人物一覧」の概要を参照ください。


西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 23:13 UTC 版)

大好き!五つ子」の記事における「西園寺家」の解説

小百合西園寺 小百合 演 - 佐久間由枝(1 - 4・6)→若林志穂(Go3!!2008桃子の妹で五つ子叔母五つ子良介からは「さーちゃん」の愛称親しまれている。結婚アメリカで長く暮らしているが、英語のほうはさっぱりらしく、子供たち話していても何を言っているのかがわからないとのこと。Go3!!帰国し、現在は千絵とともにの家で生活しているが、舅との同居について悩んでいる。性格ちゃっかりしており、そそっかしい故にトラブルメーカー西園寺 一 演 - 飯田基祐1・6・Go3!!2008小百合の夫。カメラマン年老いた父のことを心配し同居考えている。 西園寺 樹里 演 - 高島3・4)→平本亜夢(6)田中凛(Go3!!2008小百合・一の長女五つ子母方従妹面倒見のいい姉だが、弟・大輝暴れると止めるために一緒になってついどたばたとなってしまう。最近では、美穂にそっくりになってきているらしく、本人曰く美穂みたいな高校生なりたいと言っている。 西園寺 大輝 演 - 荒川澪音(6)林遼威(Go3!!2008小百合・一の長男五つ子母方従弟やんちゃな性格で、いつも樹里たしなめられている。向こうでの暮らし長いせいか、こっちでもよく英語で話してしまう。親の悪口などは、英語を使って樹里話しているらしい西園寺 俊太郎 演 - 坂本長利(Go3!!2008一の父小百合義父樹里大輝父方祖父。剛がアルバイトをすることになる左官親方。後に剛の弟子入り志願を「何年かかって大学卒業する」という条件の下、受け入れる。

※この「西園寺家」の解説は、「大好き!五つ子」の解説の一部です。
「西園寺家」を含む「大好き!五つ子」の記事については、「大好き!五つ子」の概要を参照ください。


西園寺家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:38 UTC 版)

MFゴースト」の記事における「西園寺家」の解説

恋の父親 西園寺家の長で、恋の父親フルネーム不明。 妻の真由子ともどもカナタ快く受け入れ息子として親切に接し緒方への紹介カナタの父の捜索などの援助をおこなう。車好きで、一ドライバーとしてカナタ尊敬している。 西園寺 真由子さいおんじ まゆこ) 恋の母親で、カナタ亡母キャサリンとは美術大学クラスメイト親友だった。現在は絵画教室主宰している。 来日したカナタを夫ともども快く受け入れ、「カナちゃん」と呼び日本での生活サポートするカナタからは「真由子ママ」と呼ばれている。カナタ才能レースではない他のことに向けるべきだと感じており、絵画取り組むことも勧めている。カナタレース中に命を落としてしまうのではないか強く危惧するあまり、開幕戦レース中継見て体調崩してしまい、それ以降中継見ないようにしている。

※この「西園寺家」の解説は、「MFゴースト」の解説の一部です。
「西園寺家」を含む「MFゴースト」の記事については、「MFゴースト」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「西園寺家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西園寺家」の関連用語

西園寺家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西園寺家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの西園寺家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの清華家 (改訂履歴)、半分、青い。 (改訂履歴)、蒼の封印 (改訂履歴)、デイズシリーズ (改訂履歴)、不適切シリーズ (改訂履歴)、鎌倉時代の人物一覧 (改訂履歴)、大好き!五つ子 (改訂履歴)、MFゴースト (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS