三条公定とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 三条公定の意味・解説 

三条公定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/12 15:40 UTC 版)

 
三条公定
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 長寛元年(1163年
死没 不詳
別名 実経
官位 従二位権中納言
主君 六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 西園寺家庶流三条家(清水谷流)
父母 父:藤原実宗、母:藤原教良の娘
兄弟 公定藤原定家室、西園寺公経、公修、藤原公仲、公暁、藤原隆忠室、藤原公国室
藤原成親の娘
藤原実持、藤原実基、藤原実俊、実暁、実算
テンプレートを表示

三条 公定(さんじょう きみさだ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿内大臣藤原実宗の長男。官位従二位権中納言。本名を実経という[1]

経歴

以下、『公卿補任』による。

仁安2年(1167年)5歳にして叙爵寿永元年12月(1183年1月)に従五位上寿永2年(1183年)侍従文治3年(1187年阿波介、文治4年(1188年正五位下に昇叙。建久5年(1194年)には左近衛少将蔵人を兼任する。

建久6年(1195年)2月、遠江介を兼任。12月(1196年1月)には左少弁に任ぜられる。建久8年(1197年)正月、従四位下に叙される。建久9年12月(1199年1月)には左中弁に転じ、正治元年(1199年)に従四位上・修理左宮城使、正治3年(1201年正四位下、改建仁元年(1201年)8月に右大弁・蔵人頭、翌建仁2年(1202年)阿波権守を兼ねる。

建仁2年(1202年)7月23日、参議に任ぜられ、翌年には従三位に昇る。建永元年(1206年)、備前権守・左大弁・勘解由次官を兼ね、位階は正三位に昇るも子の実基が妖言に関係したとして佐渡国に配流となった。

建暦元年(1211年)に帰京し、民部卿を務める。翌年参議に復する。建保4年(1216年)従二位・権中納言に至る。同年、権中納言を辞退した(民部卿如元)。建保6年(1218年)出家。

系譜

  • 父:藤原実宗
  • 母:藤原教良の娘
  • 妻:藤原成親の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原実基
    • 男子:藤原実俊
    • 男子:実暁
    • 男子:実算

脚注

  1. ^ 尊卑分脈



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三条公定」の関連用語

三条公定のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三条公定のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三条公定 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS