徳川慶久
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德川 慶久(徳川 慶久、とくがわ よしひさ、1884年〈明治17年〉9月2日 - 1922年〈大正11年〉1月22日)は、日本の政治家。位階勲等爵位は正三位勲三等公爵。周囲の人々からは音読みで「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていた。貴族院議員・第一銀行取締役・華族世襲財産審議会議長などを歴任した。
注釈
- ^ 慶喜の「慶」の字は、もともとは江戸幕府第12代将軍徳川家慶から賜ったものである。以降、「慶」の字は子の慶光・孫の慶朝にも付けられている。
- ^ 遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』「慶久さまがお妾にお生ませになった二人のお嬢さまは無事育ってお嫁にいらっしゃいましたけれど、實枝子さまの方は存じません」。ただし、この説の証言者は自称元華族の「松平幸子」という偽名の女性であり、誰なのかはいまだ明らかになっていない。著者である遠藤幸威の死後は、その正体を探る手立てがなくなったため、歴史学的には証言の資料的価値は限りなく低いとみなされている。
- ^ 枢密院議長倉富勇三郎の日記より、大正10年12月8日、宮内官僚松平慶民子爵の言葉「今朝徳川慶久来り貴官に面会せんと欲したるも、不在なりしをもって自分に話したり。」「徳川は「今年末よりカリフォルニアあたりに行かんと欲す」」倉富と宮内大臣牧野伸顕伯爵の会話。牧野「徳川の家庭に関することを聞き居るや。」 倉富「何も聞くところなし。」「ただし徳川より庶子出生届を出したるは妙なことなりと思い居るのみ。」牧野「徳川が赤十字の用務を帯び洋行して帰りたる頃よりのことなりとかいうことなり。」「夫婦のあいだ調和を欠き、慶久はそのため極度の神経衰弱を病み居るとのことなり。」「徳川の不在中 夫人が待合に入りたることあり。また芝居観に行きたることありとかいうことなり。」「名家の家庭にこの如き風聞あるは実に困りたることなり。」
出典
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、18頁。
- ^ 『大正過去帳 - 物故人名辞典』
- ^ 遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』p.280(朝日文庫、1985年)
- ^ 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1301号「叙任及辞令」1916年12月2日。
- ^ 『官報』第2841号「叙任及辞令」1922年1月24日。
- ^ 『徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』
- ^ 『葵の女―川田順自叙伝』川田順、講談社 (1959/1/1)p79
- ^ a b “徳川慶喜の孫、榊原喜佐子さん死去”. 読売新聞 (2013年11月28日). 2013年11月28日閲覧。
- ^ 徳川家康公顕彰四百年記念座談会岡崎市長・内田康宏オフィシャルブログ、2015年6月17日
- ^ 各草思社(前者は文庫再刊)
- ^ 徳川慶喜の95歳孫娘が作家デビュー 井手久美子氏の自叙伝「徳川おてんば姫」(デイリースポーツ・2018年6月13日)
- ^ 徳川家の末裔「95歳」で作家になった女の一生 「徳川おてんば姫」の息子が語る母の姿 (東洋経済オンライン・2018年12月13日)
- ^ 東京キララ社出版 ISBN 4903883299
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