橋本家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/09 08:34 UTC 版)
橋本家 | |
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本姓 | 藤原北家閑院流西園寺庶流 |
家祖 | 橋本実俊 |
種別 | 公家(羽林家) 華族(伯爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 | 山城国 東京府 神奈川県 |
著名な人物 | 遊義門院一条局 橋本実麗 橋本経子 姉小路 橋本実梁 橋本麗子 橋本夏子 橋本実斐 |
支流、分家 | 梅園家(羽林家,子爵) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
橋本家(はしもとけ)は、藤原北家閑院流西園寺支流にあたる公家・華族の家。公家としての家格は羽林家。華族としての家格は伯爵家[1]。家紋は尾長巴。
歴史
公家として
鎌倉時代後期に西園寺公相(従一位太政大臣、冷泉相国)の四男実俊(従三位参議)を祖として創設される[2]。実俊は冷泉とも、橋本とも号したが[2]、孫の実澄の代から橋本の家名が定まった[2][3]。公家としての家格は羽林家[2]、内々[2]、旧家[4]。家職は有職故実と雅楽(笛)[2]。一条家の家札[2]。
実俊には長兄に西園寺家を継いだ実兼、次兄に右中将まで進んだ後に出家した実康、三兄に正三位参議まで昇進した後に出家した実顕がある。三兄の実顕は冷泉とも、橋本とも号しており、実俊は官位就任状況や称号の同一性から考察して、三兄実顕の遺跡を相続した可能性が高い[2]。
実俊の娘は後深草天皇の皇女姈子内親王(遊義門院)に仕えて一条局と号し、後に後醍醐天皇の後宮に入り、世良親王等の生母となった[2]。
4代公音までは正三位権中納言止まりだったが、5代実郷が長禄2年(1458年)に正二位権大納言まで登っており、家格を引き上げた[2]。また実郷は笛の名手で笛が橋本家の家業となったのは彼の影響が大きいと見られる[2]。
しかし実郷の子の6代公国は応仁2年(1468年)に足利義視に加担したことで「准朝敵」にされて失脚し、家が中絶した[2]。
後に同じ閑院流の権大納言清水谷実久の息子公夏が橋本家を再興したことが『諸家知譜拙記』に見える。『公卿補任』も、文明14年(1482年)に公夏が参議に昇ったところの付記に「故前権中納言公国卿男、母、実権大納言実久男」と記している[2]。なお清水谷家は残った息子の行季(公夏の弟)も世尊寺家に養子に出したため、公夏の息子の公松が清水谷家を継いだ[5]。
公夏は永正17年(1520年)に病で出家した後、友阿と号して清水谷家が家領職を有していた播磨国揖東郡広山村に下向した[5]。公夏の出家で橋本家は再び中絶したが、半世紀後、清水谷公松の子実勝が再興し、天正元年(1573年)に叙爵したが、同16年に実勝が家人に殺害される事件があり、三度目の中絶をした[5]。
元和元年(1619年)に公夏の子季宗(清水谷公松の弟)の孫にあたる橋本実村により再興された[5]。また実村の弟実清の系譜は梅園家となった[5]。
江戸後期の当主実久(権大納言)は、元服以来後桜町上皇の院政に仕え、院別当を院崩御まで務めた。その後天保12年(1841年)から安政4年(1857年)に死去するまで議奏を務めた[5]。実久の死後、息子の実麗が相続。その妹経子(つねこ、観行院)は、仁孝天皇に典侍として仕え、14代将軍徳川家茂に降嫁した和宮親子内親王の生母となった[5]。
江戸時代の橋本家の所領の表高は200石[2]。和宮降嫁の際に江戸幕府から300石の加増の申し出を受けたが、実麗は孝明天皇に伺いを立て、その叡慮に従って断っている[6]。
実麗の養嗣子実梁(さねやな、小倉輔季の実子)は、戊辰戦争で東征軍の東海道鎮撫総督を務め、江戸城開城の際には勅使として江戸城に入城し、徳川慶喜の死一等を減じる代わりに慶喜に水戸藩での謹慎を命じる朝命を徳川慶頼に申し渡した[7]。
華族として
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると橋本家も公家として華族に列した[8][9]。また同年6月2日の戊辰戦功賞典において、実梁には東海道鎮撫総督としての戦功により賞典禄200石が下賜された[10]。
明治3年12月10日に定められた実麗の家禄は、現米で369石1斗[11][注釈 1]。
明治9年2月3日に実麗が隠居し、実梁が家督相続[1]。同年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と賞典禄(実額50石)の合計419石1斗と引き換えに実梁に支給された金禄公債の額は1万8352円75銭2厘(華族受給者中243位)[13]。明治前期の実梁の住居は東京府牛込区市ヶ谷砂土原町にあった。当時の家扶は根岸正敷。当時の実梁は式部権助兼二等掌典を務めていた[14]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧・堂上家[注釈 2]として実梁に伯爵位が授けられた[16]。
明治18年9月16日に実梁が死去し、長男の実頴が爵位と家督を相続[1]。実頴夫人敬子は、六条有容長女[1]。
実頴が昭和4年8月1日に隠居した後は、長男の実斐が爵位と家督を相続[1]。実斐は京都帝国大学仏政治学科を卒業後、文官高等試験に合格して農商務省官僚となったのを経て、昭和4年には農林事務官兼内閣総理大臣秘書官に就任。また昭和6年以降貴族院の子爵議員に当選して務めた[17]。その後内務参与官、文部政務次官なども務めた[18]。実斐夫人正子は、清水谷実英伯爵の次女[18]。
彼の代の昭和前期に橋本伯爵家の住居は神奈川県大磯町にあった[17]。
実斐には養子として春彦(昭和29年4月4日生)、その子に公瑛(昭和59年2月23日生)がある[18]。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
西園寺公相 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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橋本実俊1 | 実兼 | 実顕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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季経2 | 俊季 | 遊義門院一条局 |
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後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実澄3 | 公興 | 世良親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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公音4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実郷5 | 実淳 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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公国6 | 公雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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公夏7[1] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実勝8 | 清水谷公松 | 季宗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実村9 | 橋本実勝 | 季景 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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季村10 | 万里小路雅房 | 女 |
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葉室頼業 | 実村 | 梅園実清 〔梅園家〕 |
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公綱11 | 橋本公綱 | 頼孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実松12 | 橋本実松 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実文13 | 葉室頼胤 | 穂波尚明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実理14[2] | 実氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実誠15 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実久16 | 伊与子 | 理子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実麗17 | 裏辻公篤 | 小倉長季 | 経子 |
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仁孝天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実梁18[3] | 麗子 |
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東坊城夏長 | 夏子 | 和宮親子内親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実陳 | 実頴19 | 橋本夏子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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実斐20 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜参考
- 日本の名字七千傑「橋本家」
- 公卿類別譜「橋本家」 - ウェイバックマシン(2008年12月11日アーカイブ分)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 357.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 橋本政宣 2010, p. 222.
- ^ 野島寿三郎 1994, p. 624.
- ^ 太田亮 1934, p. 4689.
- ^ a b c d e f g 橋本政宣 2010, p. 223.
- ^ 橋本政宣 2010, p. 224.
- ^ 家近良樹 2005, p. 22.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 41.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 9.
- ^ 刑部芳則 2014, pp. 105–106.
- ^ 石川健次郎 1972, p. 52.
- ^ 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年) 。
- ^ 浅見雅男 1994, p. 118.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 325.
- ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 121.
- ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 358.
参考文献
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 家近良樹『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』講談社〈講談社選書メチエ320〉、2005年。ISBN 978-4062583206。
- 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。
太田亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 橋本家 はしもとけ」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、4689頁。 NCID BN05000207。 OCLC 673726070。全国書誌番号: 47004572 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。 ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。 ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。 ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。 ISBN 978-4820540342。
- 野島寿三郎『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年(平成6年)。 ISBN 978-4816912443。
- 橋本政宣『公家事典』吉川弘文館、2010年(平成22年)。 ISBN 978-4642014427。
橋本家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 03:26 UTC 版)
(岡山県総社市、東京都渋谷区) 実家 父・卯太郎(実業家・大日本麦酒の元常務) 岡山県吉備郡秦村(現総社市)出身。 母・マツ(熊本県、軍人石光真清、陸軍中将石光真臣の妹、陸軍主計総監男爵野田豁通の姪) 石光家は旧藩時代、熊本藩主細川家に仕えた武家だった。石光家の身分は軽かったが、細川家が肥後入国の時からお供をした家柄であり、代々殿のお側に奉仕していたから特別の取り扱いを受けていた 弟 宙二(軍人、実業家) 乾三(検事) 龍伍(官僚、政治家) 虎六(学者) 自家 妻・静恵(静岡県、石原宗三郎の長女) 長男・鐡司 長女・銀子 二女・真理子 三女・和子(東京工業大学名誉教授宗宮重行の妻)
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