創立から江戸時代までの動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 06:07 UTC 版)
「橋本家」の記事における「創立から江戸時代までの動向」の解説
鎌倉時代末期、西園寺公相の四男実俊を祖として創設される。実俊は冷泉・橋本・入江などを称していたが、孫の橋本実澄の代から橋本の家名が定まった。6代目の橋本公国まで父子相続が続いたが、公国に跡継ぎがなく、同じ西園寺家一門の清水谷家から橋本公夏(1454年-1538年)が養子に入った。公夏は播磨国で出家し、彼の後は孫で養子の橋本実勝が継いだが、天正16年(1588年)横死して家系は中絶。その後、江戸時代初期に一族の橋本実村(公夏の曾孫)が実勝の養子の形式で家を継いだ。実村の弟実清(梅園実清)は分家して梅園家の祖となった。江戸時代後期の橋本実久は議奏を務め、安政の内裏造営のときも御用掛を務めた。 江戸時代の家禄は200石。幕末に和宮親子内親王の将軍家降嫁に尽力したことから500石に加増。
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