ぎ‐そう【議奏】
議奏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/17 14:34 UTC 版)
議奏(ぎそう)とは、
- ^ ただし吉田経房は頼朝の幼少期に、上西門院の側近として共に仕えているので面識はあったと思われる。
- ^ 頼朝追討宣旨発給の経緯について頼朝は、妹婿の一条能保から「都人の伝言」として報告を受けているが、その情報は後白河院の諮問に対する経宗、兼実、実定、経房の奏上内容や院近臣の動向に触れるなど極めて詳細なものだった(『吾妻鏡』11月10日条)。能保が鎌倉にいながら朝廷中枢に関わる情報を得られた理由について、佐伯智広は能保の母が徳大寺公能の娘であることから、実定が表向きは追討宣旨発給に賛同しながら、密かに甥の能保と通じていたのではないかと推測している。議奏指名後に実定が越前国、弟の実家が美作国を知行国として獲得しているのは、情報提供に対する報奨とも考えられる(佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』564、2006年)。
- ^ 『国史大辞典』・『日本歴史大事典』の「議奏」の項目(『国史』田中稔、『日本歴史』河内祥輔、執筆)参照のこと。
- ^ 林大樹「序章 近世天皇・朝廷研究の成果と本書の目的」『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) 2021年、P8-9.
- ^ 田中、2011年、P89
- ^ 林大樹「近世の近習小番について」『論集きんせい』第40号(2018年)/所収:林『天皇近臣と近世の朝廷』(吉川弘文館、2021年) 2021年、P140-146.
- ^ 禁裏小番の免除は寛文10年10月10日より行われている(田中、2011年、P89)。
- ^ 当時、御側衆の1人であった柳原資行が困窮を理由に辞退を申し出たのをきっかけに、後水尾法皇の命令で寛文11年10月15日より禁裏御料から支給されることになった(田中、2011年、P95-96)。
- ^ 延宝2年(1674年)に東福門院の御所造営の完了を名目に将軍徳川家綱から京都所司代を通じて御側衆にそれぞれ銀50枚が授けられており、幕府が御側衆を取り込んで朝廷統制に活用しようとしていたことがうかがえる。延宝7年5月6日から実施された幕府からの役料支給もその延長上に考えることができる(田中、2011年、P98-99)。
- ^ 石田俊「元禄期の朝幕関係と綱吉政権」(初出:『日本歴史』725号(2008年)/所収:石田『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年 ISBN 978-4-642-04344-1)2021年、P63-66.
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