一条能保とは? わかりやすく解説

一条能保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/20 01:37 UTC 版)

一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿藤原北家中御門流藤原通重の長男[1]。一条二位入道と号す。


注釈

  1. ^ 玉葉』寿永2年(1183年)11月6日条には「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」とあり、能保の滞在先は阿野全成(頼朝の異母弟)の邸だったという。
  2. ^ 文治元年(1185年)の頼朝追討宣旨発給の経緯について能保は「都人の伝言」として頼朝に報告しているが、その情報は後白河院の諮問に対する藤原経宗・九条兼実・徳大寺実定吉田経房の奏上内容や院近臣の動向に触れるなど極めて詳細なものだった(『吾妻鏡』11月10日条)。能保が鎌倉にいながら朝廷中枢に関わる情報を得られた理由について、佐伯智広は能保の母が徳大寺公能の娘であることから、実定が表向きは追討宣旨発給に賛同しながら、密かに甥の能保と通じていたのではないかと推測している。議奏指名後に実定が越前国、弟の実家が美作国を知行国として獲得しているのは、情報提供に対する報奨とも考えられる[3]
  3. ^ 建久2年(1191年)3月22日の建久新制により頼朝の諸国守護権が公式に認められたが、能保が検非違使別当に、大江広元が検非違使庁の法曹部門を担当する明法博士に就任したのはこの前後であり、頼朝が在京武力掌握のために検非違使庁を幕府の管理下に置く構想を抱いていたとする見解がある[3]
  4. ^ この強訴防御では実働部隊の廷尉を動員できず、北条時定が現場から離脱、安田義定も能保の命令に不満を述べている。佐伯智広は能保の指揮能力欠如を指摘している[3]
  5. ^ 能保と兼実の対立は、建久2年(1191年)6月の能保の娘と兼実の子の九条良経の婚姻を巡るトラブルより顕著になり始め、同年11月の除目における高能の中将昇進、建久6年(1195年)正月の尊長の僧綱昇進がともに兼実の「身分不相応」との主張によって見送られ(ともに『玉葉』)、更に能保が源頼朝の娘大姫の入内計画に加担すると、対立は決定的となった[4]

出典

  1. ^ 三省堂編修所 編 『コンサイス日本人名事典』上田正昭ほか監修(第5版)、三省堂、2009年、123頁。 
  2. ^ 本朝世紀』久安5年(1149年)8月1日条
  3. ^ a b c 佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』第564号、古代学協会、2006年。
  4. ^ 塩原浩 著「宗公孫一条家の消長 -中世前期における一公卿家の繁栄と衰退-」、中野英夫 編 『日本中世の政治と社会』吉川弘文館、2003年。ISBN 978-4-642-02829-5 
  5. ^ 『尊卑分脈』による。但し、円助法親王は1256年生まれとされるため、年代的に不自然。


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一条能保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 18:42 UTC 版)

一条家 (中御門流)」の記事における「一条能保」の解説

通重の遺児・一条能保は祖母の上西門院一条によって育てられ没後一条室町邸宅継承した。後に上西門院庇護の下にあった源義朝遺児坊門姫娶った坊門姫の兄である源頼朝平氏政権打倒兵を挙げると、能保は頼朝接近し寿永2年1183年11月坊門姫平頼盛とともに鎌倉下向して頼朝会見し手厚い待遇を受ける。以後頼朝政治力拡大とともに鎌倉幕府朝廷連絡役として能保の存在感高まり鎌倉幕府からは文治2年1186年)に京都守護に任ぜられ、朝廷においても文治4年1188年)に能保が従三位叙され公卿列した建久2年1191年)には九条良経と能保の娘(頼朝の姪)の婚儀成立し、後に九条道家誕生する。後に源氏将軍断絶後摂家将軍誕生する背景には摂家九条家中御門流一条家経由して河内源氏血筋入っていたことによる。能保は最終的に正二位権中納言昇進した

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