一条能保
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一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男[1]。一条二位入道と号す。
注釈
- ^ 『玉葉』寿永2年(1183年)11月6日条には「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」とあり、能保の滞在先は阿野全成(頼朝の異母弟)の邸だったという。
- ^ 文治元年(1185年)の頼朝追討宣旨発給の経緯について能保は「都人の伝言」として頼朝に報告しているが、その情報は後白河院の諮問に対する藤原経宗・九条兼実・徳大寺実定・吉田経房の奏上内容や院近臣の動向に触れるなど極めて詳細なものだった(『吾妻鏡』11月10日条)。能保が鎌倉にいながら朝廷中枢に関わる情報を得られた理由について、佐伯智広は能保の母が徳大寺公能の娘であることから、実定が表向きは追討宣旨発給に賛同しながら、密かに甥の能保と通じていたのではないかと推測している。議奏指名後に実定が越前国、弟の実家が美作国を知行国として獲得しているのは、情報提供に対する報奨とも考えられる[3]。
- ^ 建久2年(1191年)3月22日の建久新制により頼朝の諸国守護権が公式に認められたが、能保が検非違使別当に、大江広元が検非違使庁の法曹部門を担当する明法博士に就任したのはこの前後であり、頼朝が在京武力掌握のために検非違使庁を幕府の管理下に置く構想を抱いていたとする見解がある[3]。
- ^ この強訴防御では実働部隊の廷尉を動員できず、北条時定が現場から離脱、安田義定も能保の命令に不満を述べている。佐伯智広は能保の指揮能力欠如を指摘している[3]。
- ^ 能保と兼実の対立は、建久2年(1191年)6月の能保の娘と兼実の子の九条良経の婚姻を巡るトラブルより顕著になり始め、同年11月の除目における高能の中将昇進、建久6年(1195年)正月の尊長の僧綱昇進がともに兼実の「身分不相応」との主張によって見送られ(ともに『玉葉』)、更に能保が源頼朝の娘大姫の入内計画に加担すると、対立は決定的となった[4]。
出典
一条能保
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「一条家 (中御門流)」の記事における「一条能保」の解説
通重の遺児・一条能保は祖母の上西門院一条によって育てられ、没後に一条室町の邸宅を継承した。後に上西門院の庇護の下にあった源義朝の遺児坊門姫を娶った。坊門姫の兄である源頼朝が平氏政権打倒の兵を挙げると、能保は頼朝と接近し、寿永2年(1183年)11月に坊門姫や平頼盛とともに鎌倉に下向して頼朝と会見し、手厚い待遇を受ける。以後、頼朝の政治力の拡大とともに、鎌倉幕府と朝廷の連絡役として能保の存在感が高まり、鎌倉幕府からは文治2年(1186年)に京都守護に任ぜられ、朝廷においても文治4年(1188年)に能保が従三位に叙されて公卿に列した。建久2年(1191年)には九条良経と能保の娘(頼朝の姪)の婚儀が成立し、後に九条道家が誕生する。後に源氏将軍断絶後に摂家将軍が誕生する背景には摂家九条家に中御門流一条家を経由して河内源氏の血筋が入っていたことによる。能保は最終的に正二位権中納言に昇進した。
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