一条能保とは? わかりやすく解説

一条能保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/11 09:11 UTC 版)

 
一条能保
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 久安3年(1147年
死没 建久8年10月13日1197年11月23日
改名 能保、保蓮
官位 検非違使別当従二位権中納言
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 一条家藤原北家中御門流
父母 父:藤原通重、母:徳大寺公能の娘
坊門姫源義朝の娘)
江口の遊女慈氏
藤原有恒の娘
高能信能実雅尊長中院通方室、西園寺公経室、九条良経
テンプレートを表示

一条 能保(いちじょう よしやす)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿藤原北家中御門流丹波守藤原通重の長男[1]。一条二位入道と号す。

経歴

父方の祖母は後白河法皇の同母姉の上西門院乳母の一条で、能保は後白河法皇や上西門院に近い立場にあった。また、母は当時の宮中で勢力を保っていた閑院流徳大寺公能の娘であった。

鳥羽院政期久安5年(1149年)3歳で父・藤原通重が死没し[2]、以後は祖母に育てられ、後に祖母が所有していた一条室町邸を譲り受けた。仁平3年(1153年)上西門院御給により叙爵し、保元2年(1157年)11歳にして丹波守に任官される。しかし僅か一年で任を解かれ、暫くの間は国司に任官されなかった。

仁安2年(1167年)母方の縁に連なる徳大寺家出身の太皇太后藤原多子に太皇太后宮権亮として仕える。この時期は徳大寺家や上西門院に近い存在ながら、官職には恵まれていなかったが、仁安3年(1168年)従五位上、承安3年(1173年正五位下と上西門院の給により昇進を重ねた。この間に源頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻に迎えている。この縁について、頼朝及び坊門姫の母方・熱田大宮司家も同様に上西門院に近い存在であったことが指摘されている。

治承4年(1180年治承・寿永の乱が勃発。乱の初期においての能保の動向は明らかではないが、木曾義仲の勢力下にあった寿永2年(1183年)頃にその圧迫を逃れて東国に下ったとされ(『愚管抄』)、元暦元年(1184年)には平頼盛などとともに鎌倉に滞在していたという。なお、能保の鎌倉での滞在先は阿野全成(頼朝の異母弟)の邸だったという[3]

元暦2年(1185年壇ノ浦の戦い平家が滅び、源頼朝が新たな権力者となる。頼朝にとっては、存命の同母兄弟姉妹は能保の妻である坊門姫だけであり(同母弟の希義は戦死、範頼義経は異母弟)、能保は妻の縁により頼朝から全幅の信頼を寄せられるようになった。同年10月の後白河法皇による頼朝追討宣旨発給の経緯について、能保は「都人の伝言」として頼朝に報告しているが、その情報は後白河院の諮問に対する藤原経宗・九条兼実・徳大寺実定吉田経房の奏上内容や院近臣の動向に触れるなど極めて詳細なものだった[4]。能保が鎌倉にいながら朝廷中枢に関わる情報を得られた理由について、能保の母が徳大寺公能の娘であることから、実定が表向きは追討宣旨発給に賛同しながら、密かに甥の能保と通じていたのではないかとの推測がある(佐伯智広)。議奏指名後に実定が越前国、弟の実家が美作国を知行国として獲得しているのは、情報提供に対する報奨とも考えられる[5]。能保は頼朝の父の菩提寺勝長寿院の造営に際して、頼朝とともに造営の下見をしたり、文治元年(1185年)10月の同寺院の落成式には妻とともに参列している。元暦3年(1186年)再び都に戻り北条時政の後任として京都守護に就任し、頼朝と対立した源義経やその係累の捜索の指揮を取るなど、京都における頼朝の「耳目」の役割を担った[6]

頼朝の威光を背景に、能保は右兵衛督を務める一方で、元暦元年(1184年従四位下、元暦3年(1186年)従四位上、元暦4年(1187年正四位下と急速に昇進を果たし、文治4年(1188年従三位に叙せられ公卿に列した。文治5年(1189年参議に任ぜられるが、議政官の傍らで引き続き兵衛督を兼ねたほか、建久2年(1191年)には検非違使別当も兼帯。この間の文治6年(1190年正三位に昇叙されている。なお、建久2年(1191年)3月の建久新制により頼朝の諸国守護権が公式に認められたが、能保が検非違使別当に、大江広元が検非違使庁の法曹部門を担当する明法博士に就任したのはこの前後であり、頼朝が在京武力掌握のために検非違使庁を幕府の管理下に置く構想を抱いていたとする見解がある[5]

能保自身は後白河法皇・後鳥羽天皇に近侍して重用される一方、妻や娘の保子(花山院忠経の妻、母は坊門姫)は後鳥羽天皇の乳母とする。さらに、九条良経九条兼実の子)や西園寺公経を娘と娶わせ、花山院兼雅土御門通親とも姻戚関係を結ぶなど、朝廷と幕府の双方に広い人脈を形成した。しかし、建久2年(1191年)4月の延暦寺強訴では、内裏防御のための実働部隊の廷尉を動員できず、北条時定が現場から離脱、安田義定も能保の命令に不満を述べるなど、内裏防御に失敗。結局、能保は就任したばかりの検非違使別当を辞任している(建久二年の強訴)。この経緯から、能保の指揮能力が欠如していたとの指摘がある(佐伯智広)[5]

建久2年(1191年)3月に権中納言に昇進するが、翌建久3年(1192年)8月に権中納言兼検非違使別当を辞職する。能保の急激な台頭に対する有力公家の反感も強く、同じ親頼朝派でありながら九条兼実とも不仲であった。能保と兼実の対立は、建久2年(1191年)6月の能保の娘と兼実の子の九条良経の婚姻を巡るトラブルより顕著になり始め、同年11月の除目における高能の近衛中将昇進、建久6年(1195年)正月の尊長の僧綱昇進がともに兼実の「身分不相応」との主張によって見送られ(ともに『玉葉』)、更に能保が源頼朝の娘大姫の入内計画に加担すると、対立は決定的となった[7]。このため、建久7年(1196年)に土御門通親と九条兼実が対立した建久七年の政変では通親を支持したとされている。

建久5年(1194年)8月に病に倒れて出家し、保蓮と号した。建久8年(1197年)10月13日薨去享年51。

なお、鎌倉幕府4代将軍・九条頼経は、頼朝の同母姉妹(能保の妻)の曾孫であることを理由に将軍に擁立された。

官歴

公卿補任』による。

系譜

関連作品

テレビドラマ

脚注

  1. ^ 三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典』上田正昭ほか監修(第5版)、三省堂、2009年、123頁。 
  2. ^ 本朝世紀』久安5年8月1日条
  3. ^ 「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」(『玉葉』寿永2年11月6日条)
  4. ^ 『吾妻鏡』11月10日条
  5. ^ a b c 佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』第564号、古代学協会、2006年。 
  6. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  7. ^ 塩原浩 著「宗公孫一条家の消長 -中世前期における一公卿家の繁栄と衰退-」、中野英夫 編『日本中世の政治と社会』吉川弘文館、2003年。ISBN 978-4-642-02829-5 
  8. ^ 『尊卑分脈』による。但し、円助法親王は1256年生まれとされるため、年代的に不自然。

参考文献

先代
一条通重
一条家
第2代
次代
一条高能

一条能保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 18:42 UTC 版)

一条家 (中御門流)」の記事における「一条能保」の解説

通重の遺児・一条能保は祖母の上西門院一条によって育てられ没後一条室町邸宅継承した。後に上西門院庇護の下にあった源義朝遺児坊門姫娶った坊門姫の兄である源頼朝平氏政権打倒兵を挙げると、能保は頼朝接近し寿永2年1183年11月坊門姫平頼盛とともに鎌倉下向して頼朝会見し手厚い待遇を受ける。以後頼朝政治力拡大とともに鎌倉幕府朝廷連絡役として能保の存在感高まり鎌倉幕府からは文治2年1186年)に京都守護に任ぜられ、朝廷においても文治4年1188年)に能保が従三位叙され公卿列した建久2年1191年)には九条良経と能保の娘(頼朝の姪)の婚儀成立し、後に九条道家誕生する。後に源氏将軍断絶後摂家将軍誕生する背景には摂家九条家中御門流一条家経由して河内源氏血筋入っていたことによる。能保は最終的に正二位権中納言昇進した

※この「一条能保」の解説は、「一条家 (中御門流)」の解説の一部です。
「一条能保」を含む「一条家 (中御門流)」の記事については、「一条家 (中御門流)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「一条能保」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「一条能保」の関連用語

一条能保のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



一条能保のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの一条能保 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの一条家 (中御門流) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS