能保没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 18:42 UTC 版)
「一条家 (中御門流)」の記事における「能保没後」の解説
建久8年(1197年)に一条能保が薨去し、その翌年には嫡男高能(従二位参議左兵衛督)も薨去する。続いて建久10年(1199年)の源頼朝の死去と直後に浮上した一条家家臣による土御門通親暗殺計画すなわち三左衛門事件が発生した。これによって一条家は大打撃を受けるが、後鳥羽上皇による院政の展開と源実朝を通じた鎌倉幕府との協調政策が展開されるようになると、一条家は院近臣として再び浮上することになった。更に幕府と一条家の関係も継続され、公暁による実朝暗殺事件の舞台となった建保7年(1219年)の源実朝右大臣拝賀に一条家から5名が参列していることからも、幕府の一条家重視の姿勢が見える。
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