実朝暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:00 UTC 版)
年が明けた建保7年(1219年)1月27日、雪が2尺(約60cm)ほど降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣する。夜になって参拝を終えて石段を下り、公卿が立ち並ぶ前に差し掛かったところを、頭布を被った公暁が襲いかかり、下襲の衣を踏みつけて実朝が転倒した所を「親の敵はかく討つぞ」と叫んで頭を斬りつけ、その首を打ち落とした。同時に3、4人の仲間の法師が供の者たちを追い散らし、源仲章を北条義時と間違えて切り伏せた。そして『吾妻鏡』によると、八幡宮の石段の上から「我こそは八幡宮別当阿闍梨公暁なるぞ。父の敵を討ち取ったり」と大音声を上げ、逃げ惑う公卿らと境内に突入してきた武士達を尻目に姿を消した。一方、『愚管抄』によると公暁はそのような声は上げておらず、鳥居の外に控えていた武士たちは公卿らが逃げてくるまで襲撃にまったく気づかなかったとある。儀式の際、数千の兵はすべて鳥居の外に控えており、その場に武装した者はいなかった。 公暁は実朝の首を持って雪の下北谷の後見者・備中阿闍梨宅に戻り、食事の間も実朝の首を離さず、乳母夫の三浦義村に使いを出し、「今こそ我は東国の大将軍である。その準備をせよ」と言い送った。義村は「迎えの使者を送ります」と偽り、北条義時にこの事を告げた。義時は躊躇なく公暁を誅殺すべく評議をし、義村は勇猛な公暁を討つべく長尾定景を差し向けた。 公暁は義村の迎えが来ないので、1人雪の中を鶴岡後面の山を登り、義村宅に向かう途中で討手に遭遇する。討ち手を斬り散らしつつ義村宅の板塀までたどり着き、塀を乗り越えようとした所を討ち取られた。享年20。 定景が公暁の首を北条義時邸に持ち帰り、義時が首実検を行った。なお、『吾妻鏡』によると実朝の首は所在不明だが、『愚管抄』には岡山の雪の中から実朝の首が発見されたとある。 公暁の犯行の背後には、北条氏の源家討滅、あるいは北条氏の政敵で公暁と近しかった三浦氏による北条打倒、または将軍親裁を強める実朝に対する北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀、もしくは後鳥羽上皇による幕府転覆の策謀などが存在したのではないかと後世の研究家にそれぞれ推測されているがいずれも確証はない。またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところに、この事件の最も大きな要因を求める見解もあり、公暁単独犯行説を取っている研究者も複数いる。 なお、公暁の墓は現存せず、墓所についての史料も存在しない。かつて鶴岡八幡宮には「公暁の隠れいちょう」と呼ばれるイチョウの大木が立っており、公暁がこの樹の陰に潜んで実朝を襲ったという伝説と共に親しまれていたが、この伝説が知られるようになったのは江戸時代になってからの事であり、当時の史料にはない話である。このイチョウは2010年3月10日の強風によって倒壊した。
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