実朝擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:10 UTC 版)
時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、自邸の名越亭に迎えて実権を握った。9月16日には幼い実朝に代わって時政が単独で署名する「関東下知状」という文書が発給され(『鎌倉遺文』1379)、御家人たちの所領安堵以下の政務を行った。10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任した。この時期の時政は鎌倉殿である実朝はもちろん、同じ政所別当である大江広元の権限を抑えて幕府における専制を確立していた。建仁3年(1203年)に時政が初代執権に就いたとされるのは、こうした政治的状況を示すものと考えられている。また、頼朝在世中の時政は上記のとおり地味な存在であり、有力幕臣として頭角を現したのは十三人合議制あたりからである。ただ、その間に領土的な地盤は拡充されており、旗揚げ時にも僅かな兵しか動かせなかった小豪族・北条家は、三浦や畠山といった大族に対抗し得るだけの軍事力をも蔵するようになってきていた。 時政が政所別当に就任した同日、時政と牧の方との間に生まれた長女の婿で武蔵守である平賀朝雅が京都守護の職務のため鎌倉を離れた。武蔵国の国務は岳父の時政が代行することになり、侍所別当・和田義盛の奉行により武蔵国御家人に対し、時政に忠誠を尽くす旨が命じられている(『吾妻鏡』建仁3年10月27日条)。11月には比企能員の変において逃げ延びた一幡が捕らえられ、時政の子・義時の手勢に殺された。元久元年(1204年)3月6日には義時が相模守に任じられ、北条氏は父子で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。同年7月18日、前将軍・頼家が伊豆国修禅寺で死去したが、『愚管抄』や『増鏡』によれば頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃されて殺されている。11月5日、実朝が坊門信子を正室に迎えるための使者として上洛した嫡男政範が、京で病にかかり16歳で急死した。時政・牧の方鍾愛の子であり牧の方所生唯一の男子であった政範の死が、畠山重忠の乱から牧氏事件へと続く一族内紛のきっかけとなっていく。
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