実朝の法華堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
鎌倉幕府第3代征夷大将軍源実朝が暗殺された後、その首は行方不明になったが首以外は勝長寿院で火葬され、そこに法華堂が建てられたとみられている。骨は高野山の金剛三昧院に送られ、頼朝の庶子で実朝の異母兄にあたる貞暁が供養した。寿福寺の唐草やぐらは実朝の墓との伝承をもつが、その伝承は江戸時代に作られたものである。江戸時代の初期、寛永年間も1642~1644年の間と推定される『玉舟和尚鎌倉記』はこの唐草やぐらを「絵書櫓」と紹介し、ここに開山石塔があったと記す。実朝は一言も出てこない。それを実朝と伝え聞いたのは延宝2年(1674年)の水戸光圀の『鎌倉日記』からで、それを『新編鎌倉志』が踏襲する。しかし1717年(享保2年)の太宰春台の『湘中紀行』は「伝へいふ実朝の墓と、蓋し非なり」と否定しさっている。『東海道名所図会』には実朝塔と記しながら「千光国師は実朝の帰依僧なれば、追福の為ここに営みしと見えたり」と、仮に実朝のためのものであっても墳墓ではなく供養塔だろうと見ている。
※この「実朝の法華堂」の解説は、「やぐら」の解説の一部です。
「実朝の法華堂」を含む「やぐら」の記事については、「やぐら」の概要を参照ください。
- 実朝の法華堂のページへのリンク