だざい‐しゅんだい【太宰春台】
だざいしゅんだい 【太宰春台】
太宰春台
太宰 春台 (だざい しゅんだい)
1680〜1747 (延宝8年〜延享4年) |
【儒学者】 師・荻生徂徠の経学を発展させ、独自の説を発展させた。 |
古文辞学派の儒学者。江戸で荻生徂徠に出会い、徂徠に師事した。経学、経世論に秀で、徂徠の説をもとに自説を発展させた。著書に『経済録』などがある。はっきりした性格で人情家のため、慕う門弟は多かった。 |
年(和暦) |
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●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | 1才 |
●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | 2才 |
●1687年 (貞享4年) | ■生類憐みの令 | 7才 |
●1698年 (元禄11年) | ■江戸大火(勅額火事) | 18才 |
●1702年 (元禄15年) | ■赤穂浪士討ち入り | 22才 |
●1703年 (元禄16年) | ■江戸開府100年 | 23才 |
●1705年 (宝永2年) | ■御蔭参り流行 | 25才 |
●1707年 (宝永4年) | ■富士山噴火 | 27才 |
●1718年 (享保3年) | ■御蔭参り流行 | 38才 |
●1719年 (享保4年) | ■相対済し令 | 39才 |
●1720年 (享保5年) | ■江戸大火 | 40才 |
●1720年 (享保5年) | ■江戸町火消しいろは組を設置 | 40才 |
●1722年 (享保7年) | ■小石川養病所設置 | 42才 |
●1732年 (享保17年) | ■西日本に蝗害 | 52才 |
●1742年 (寛保2年) | ■公事方御定書制定 | 62才 |
●1744年 (延享元年) | ■神田に天文台設置 | 64才 |
・大岡 忠相 | 1677年〜1751年 (延宝5年〜宝暦元年) | +3 |
・絵島 | 1681年〜1741年 (天和元年〜寛保元年) | -1 |
・徳川 吉宗 | 1684年〜1751年 (貞享元年〜宝暦元年) | -4 |
太宰春台
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 13:50 UTC 版)
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人物情報 | |
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生誕 | 1680年11月5日![]() |
死没 | 1747年7月7日(66歳没)![]() |
国籍 | ![]() |
学問 | |
時代 | 江戸時代 |
特筆すべき概念 | 人間主体の地人関係論 |
影響を受けた人物 | 荻生徂徠、伊藤仁斎 |
太宰 春台(だざい しゅんだい、旧字体:太宰 春臺、延宝8年9月14日(1680年11月5日) - 延享4年5月30日(1747年7月7日))は、江戸時代中期の儒学者・経世家。「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。
略歴
信濃国飯田城下生まれ。平手政秀・汎秀の子孫で、父・言辰の代に下野国烏山藩士・太宰謙翁の養子となり平手姓から改姓、藩主堀親昌の転封に従い飯田藩士となったが、堀親常により改易され、一家で浪人として江戸へ出た。純は苦学の末に学問を修め、元禄7年(1694年)に15歳で、但馬出石藩の松平氏に仕え、元禄9年(1696年)17歳の時儒学者、中野撝謙に師事し、朱子学を学ぶ。
元禄13年(1700年)21歳で官を辞し、以後10年間畿内を遊学する[1][2]。その間に漢詩・天文学・地学・朱子学などを懸命に勉強した。宝永元年(1704年)富士山に登り、京都に入った。そこで、伊藤仁斎の講義を聴き、人格にうたれた[2]。
正徳元年(1711年)32歳で自由の身になり、江戸に戻った。正徳3年(1713年)、友人の紹介で荻生徂徠の門に入り、詩文から儒学特に古文辞学へと転向した[2]。正徳2年(1712年)に下総生実藩の森川俊胤に再仕官。だがこれも正徳5年(1715年)36歳で辞し、以後生涯仕官することはなかった。
正徳5年(1715年)36歳の時、本格的に研究・執筆活動に入るとともに、江戸の小石川に塾を開き、松崎観海・文雄・五味釜川・稲垣白嵓・渡辺蒙庵・関口黄山・小宮山昌世・原雲沢など多くの門人を育てた。また、何人かの大名から支援された。[2]。
のちに徂徠の説を批判し、『易経』を重んじて全ての事象を陰陽をもって解釈しようとした。また、征夷大将軍こそが「日本国王」であり、鎌倉・室町・江戸の3時代それぞれに別個の国家が存在したと説いた。その秀才と剛気は、孔子の弟子子路になぞらえられた。
著書に『経済録』・『経済録拾遺』・『産語』[3]・『聖学問答』・『弁道書』など。『経済録』は「世ヲ経(おさ)メ、民ヲ済(すく)フ」という「経世済民」を主題としており、広く政治・食貨(経済)・社会・教育・軍事について春台の思想が紹介されている。『古文考経孔氏伝』は、四庫全書に収録される数少ない日本人による漢籍である。『三王外紀』は東武野史訊洋子が著者と書かれているが、征夷大将軍を国王と見る記述などから、春台の著作であるという説が古くから唱えられているが、異論も存在している[4]。
延享4年(1747年)、68歳の時、江戸で没した。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺にあり[5]、都の指定史跡となっている。出身地の長野県飯田市中央通り3丁目には春台の石碑と「太宰松」と呼ばれる松の木があるが、初代太宰松は1947年(昭和22年)の飯田大火で焼失し、現在は2代目。
長野県民歌『信濃の国』の歌詞中にも登場している。
脚注
- ^ 他の説では、春台が次第に朱子学に疑問を抱くようになり、母親の死を機会に出石藩を辞し、学問に専心しようとしたが、藩主は一方的な辞任と受け取り、21歳の彼に10年の禁固を命じた、とある
- ^ a b c d 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ]』 原書房 2011年 66ページ
- ^ ここまでは『日本経済大典 九』(滝本誠一編、明治文献、1967年)に収録
- ^ “「三王外記」に関連して出てくる訊洋子とは何者か知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2021年9月7日閲覧。
- ^ 原得斎『先哲像伝』有朋堂文庫、1914年、P.113頁。
参考文献
- 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ] 』 原書房 2011年 ISBN 978-4-562-04694-2
関連文献
- 武部善人著『太宰春台』人物叢書 吉川弘文館、1997年 ISBN 9784642052047、オンデマンド版[1] 2021年 ISBN 9784642752046
関連項目
「太宰 春台」の例文・使い方・用例・文例
- 太宰治は39歳の時に自殺した。
- 太宰治は、自殺した。
- 太宰府市という市
- 水城という,福岡県太宰府市にある堀
- 太宰府という,昔の行政機関
- 梅の木は太宰府天満宮にとって神聖なもので,本来なら神社以外に譲られることはない。
- その書簡は,太宰氏が20代半ばのころに書かれた。
- この手紙の中で,太宰氏は佐藤氏に自分の作品を芥川賞に選んでくれるよう懇願している。
- 太宰氏は「私を見殺しにしないで下さい。いまは,いのちをおまかせ申しあげます。」と書いている。
- 太宰氏の作品「逆行」は前年の芥川賞でノミネートされたが,受賞はしなかった。
- この手紙は,太宰氏が受賞したがっていたことを示している。
- 河野准教授は「今回の書簡は,作家として初期の時代の太宰氏の精神状態を反映する貴重な資料だ。」と述べた。
太宰春台と同じ種類の言葉
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