とくがわ‐よしむね〔トクがは‐〕【徳川吉宗】
徳川吉宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/28 08:05 UTC 版)
徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第8代征夷大将軍(在職:1716年 - 1745年)。江戸幕府の中興の祖とも呼ばれている。和歌山藩の第5代藩主。初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこにあたる。
注釈
- ^ 血液型は、徳川家綱と同じO型だったとされている[2]。
- ^ 豊臣秀頼などもこの体裁を取っている。
- ^ 他に秀忠の男系子孫には保科正之に始まる会津松平家があり、秀忠の家系を伝えていた。だが保科家は御連枝や親藩ですらない譜代大名である。
- ^ 両者に関しては紀州藩による陰謀・暗殺とする説もある。
- ^ 徳川家宣の御台所天英院の姪であり、2代将軍徳川秀忠の娘和子の玄孫でもある。また姉の尚子は後に中御門天皇の女御として桜町天皇を産んでいる。
- ^ 御連枝としていまだ独立もしていないのに従四位下左近衛権少将に昇進している[3]。ただし、任じられたのはようやく21歳になってからのこと。弟の松平通温も部屋住みであったが正徳2年(1712年)には15歳で従四位下侍従兼安房守、同4年(1714年)には左近衛権少将に任官されている。継友が権少将に任官した正徳2年12月当時の藩主の吉通は24歳、五郎太は1歳であり、継友ら兄弟は、当主の吉通らが病没するなどの非常時のための後継候補要員として官位などが用意されていた、とも考えられる。さらに紀州藩の場合、部屋住みのまま頼職は15歳で従四位下左近衛権少将兼内蔵頭、頼久(のちの吉宗)も12歳で従四位下・右近衛権少将兼主税頭に任じられている上に、気前のい綱吉とはいえ、翌年には兄弟に新規所領が与えられている。
- ^ 御三家筆頭の名古屋藩と、二番手である紀州藩出身の吉宗、および将軍家との格式の張り合い、また8代将軍選定時の尾張藩(先代の継友)と吉宗との遺恨、朝廷派の尾張藩と幕府の対立なども含まれるとされる。
- ^ ただし、宗春が吉宗を直接批判した文章は残っていない。吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録も散見される[11]。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、市谷尾張藩邸の新築時に江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。
- ^ 1764年に赦免されるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていたとされているが、金網が被せられていたことを裏付ける史料は見つかっていない。
- ^ 吉宗は謹慎中の宗春に対し、生活を気遣う使者を送っている[12]。
- ^ 前述の宗春も芸者を落籍して側室としている。
- ^ 誇大に語られる御庭番だが、実態としては大目付や目付を補う、小回りの利く将軍直属の監察官や秘書官に近い。
出典
- ^ 『徳川吉宗』 - コトバンク
- ^ 得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、122-138頁
- ^ 『尾藩世記』『尾張徳川家系譜』『徳川実紀』より。
- ^ 福留真紀 『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』( 新潮社、2014年12月20日、pp.140-141)
- ^ a b c 小笠原政登著・『吉宗公 御一代記』
- ^ a b 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年5月、ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメ(BS-TBS、2015年3月9日放送)でも紹介された。
- ^ 『像志』(当時のベストセラー)(1729年)
- ^ 『象の旅長崎から江戸へ』石坂昌三(1992年)
- ^ a b 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243頁)
- ^ 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243-244頁)
- ^ 『徳川実紀』
- ^ 『尾公口授』江戸時代写本
- ^ 瀧澤・西脇『日本史小百科「貨幣」』270-271頁
- ^ 三上隆三『江戸の貨幣物語』189-191頁
- ^ 河合敦『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』128-133頁
- ^ 日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道 Archived 1999年2月9日, at the Wayback Machine.
- ^ 徳川綱吉側室の寿光院の兄。
- ^ 将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む:朝日新聞2012年8月8日
- ^ 鶴は千年、亀は萬年。 2012年8月8日付[リンク切れ]
徳川吉宗(とくがわ よしむね)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/03 07:44 UTC 版)
「咲いて孫市」の記事における「徳川吉宗(とくがわ よしむね)」の解説
※この「徳川吉宗(とくがわ よしむね)」の解説は、「咲いて孫市」の解説の一部です。
「徳川吉宗(とくがわ よしむね)」を含む「咲いて孫市」の記事については、「咲いて孫市」の概要を参照ください。
徳川吉宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/18 02:29 UTC 版)
「お江戸はねむれない!」の記事における「徳川吉宗」の解説
江戸幕府八代将軍。薄雲の実父。病に倒れ、青砥の下で手術・療養しており、薄雲に将軍代理を任せる。
※この「徳川吉宗」の解説は、「お江戸はねむれない!」の解説の一部です。
「徳川吉宗」を含む「お江戸はねむれない!」の記事については、「お江戸はねむれない!」の概要を参照ください。
徳川吉宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:54 UTC 版)
「劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル」の記事における「徳川吉宗」の解説
『暴れん坊将軍』の主人公。江戸幕府第八代将軍であり、貧乏旗本の三男坊徳田 新之助(とくだ しんのすけ)を名乗り、素性を隠して市井を見守っている。映司の行動を目の当たりにしても現代人の異彩な風貌に惑わされず、困惑する町民を宥め混乱を終息させた。剣術の達人ぶりは本作品でも健在で、多数のナイト兵を峰打ちの太刀一本で圧倒する強さを見せつけた。なお本作品では将軍姿で駆け付けた際も含め、映司たちからは終始「徳田さん」と呼ばれている。(但しディレクターズカット版では映司たちと別れた後、駿が正体に気づく描写がある。)
※この「徳川吉宗」の解説は、「劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル」の解説の一部です。
「徳川吉宗」を含む「劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル」の記事については、「劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル」の概要を参照ください。
徳川吉宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 05:35 UTC 版)
「暴れん坊将軍シリーズの登場人物」の記事における「徳川吉宗」の解説
(演:松平健、出演シリーズ:全作/ 細井伸悟、出演シリーズ:吉宗評判記/ 田中智之、出演シリーズ:II/ 越後谷新、出演シリーズ:III/ 及川潤、出演シリーズ:IV/ 石野理央、出演シリーズ:V…劇中では源六/ 芹川周市、出演シリーズ:VI/ 田宮拓、出演シリーズ:第12シリーズ) シリーズ全体の主人公。紀州から江戸第八代将軍を命ぜられた。政の改革に従事する一方で、貧乏旗本の三男坊・徳田新之助を名乗り江戸市中を歩き回り、様々な悪と闘い続けている。
※この「徳川吉宗」の解説は、「暴れん坊将軍シリーズの登場人物」の解説の一部です。
「徳川吉宗」を含む「暴れん坊将軍シリーズの登場人物」の記事については、「暴れん坊将軍シリーズの登場人物」の概要を参照ください。
「徳川 吉宗」の例文・使い方・用例・文例
- これは徳川幕府への強烈な打撃となりました。
- 『カムイの剣』は、1868年の徳川将軍時代の崩壊と、明治天皇下での日本の復興という変革期を舞台にした、一種の侍/忍者物語だ。
- 徳川家の系図を列挙しなさい。
- 徳川幕府は1868年に終わりを告げた。
- 徳川幕府.
- この珍しい風習の起源は徳川時代にさかのぼる.
- 嘘で固めた徳川幕府
- 明治政府は徳川幕府の跡に立った
- 日本は徳川の世に栄えた
- 徳川に向かって弓を引く
- 日本外史は平氏から始まって徳川時代で終る
- 徳川幕府の治世に
- 徳川栄華録
- 徳川栄華録(書名にすれば)
- 家光は徳川三代の将軍
- 徳川時代
- 時の人は皆徳川の徳を謳歌した
- 日本外史は平氏から始まって徳川氏で終わる
- 徳川の四天王
徳川 吉宗と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 徳川 吉宗のページへのリンク