徳川吉宗政権の文化政策
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『五畿内志』の編纂において、もうひとつの背景となるのは、徳川吉宗政権期における文化政策と地誌編纂との関係である。吉宗は各種の実用的な学問に関心を示し、書物収集を熱心に行っただけでなく、紅葉山文庫に所蔵された書物を政策遂行と深く関連して利用した。 書物収集は、吉宗政権中に繰り返し命じられており、各種の古文書の探索・収集・書写・収蔵は吉宗政権の末期まで継続的に続けられたが、単に古典籍の収集というにとどまるものではなかった。特に享保20年(1735年)前後以降の、青木昆陽を中心とした広範な古文書調査では、徳川幕府成立史にまつわる資料の調査・収集への関心が加わった。青木を中心とする書物収集事業では、単に収集するというだけでなく、家康の神格化に不都合な記述を削除させるなど、意図的な訂正を加えることを前提としていた。この時期、吉宗は、綱吉が編纂させた『武徳大成記』を多くの誤謬を含むとして批判する一方で、林家に命じて史料を収集させ、『御撰大坂軍記』(延享2年〈1745年〉)を編纂させていた。このことに見られるように、享保20年以降の古文書調査は徳川幕府成立史の新たな叙述を目指した事業の一環であった。 吉宗はまた、地誌の政治上の実用性に高い評価を与えており、収集した書籍の中でも地誌は大きな比率を占めている。このうち、中国方志では、享保6年(1721年)頃から収集・輸入がはじまり、同10年(1725年)から13年(1728年)に大量の輸入が見られたことが注目されるが、この背景にあったのは薬草見分を中心とする全国産物調査であった。薬草見分は輸入が開始されるのと前後する享保5年(1720年)に開始され、同年から宝暦3年(1753年)まで途切れることなく、なおかつ幕府領・寺社領・藩領の別に関わりなく行われた全国的な政策であった。しかしながら、その事前準備の段階で、調査にあたって植物名比定の参考となりうる日本地誌が無いことが発見されたと考えられている。前述の中国方志の輸入の増加の時期には、中国本草全集とも言うべき『庶物類纂』の増補作業が命じられたが、その際には中国方志所載の植物名と和名を比定する作業が行われていた。これらのことから、吉宗政権の地誌収集は、植物見分にあたって参照すべき典拠として中国方志を利用するためのものと考えられている。注目されるのは、薬草見分の遂行に携わった本草学者、野呂元丈が『五畿内志』の編纂に終始関与していることであり、『五畿内志』編纂と薬草見分をその一部とする薬草政策との関連が指摘されている。
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