徳川吉宗政権の文化政策とは? わかりやすく解説

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徳川吉宗政権の文化政策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 16:55 UTC 版)

五畿内志」の記事における「徳川吉宗政権の文化政策」の解説

五畿内志』の編纂において、もうひとつ背景となるのは、徳川吉宗政権期における文化政策地誌編纂との関係である。吉宗各種実用的な学問関心示し書物収集熱心に行っただけでなく、紅葉山文庫所蔵され書物政策遂行深く関連して利用した書物収集は、吉宗政権中に繰り返し命じられており、各種古文書探索収集書写収蔵吉宗政権末期まで継続的に続けられたが、単に古典籍収集というにとどまるものではなかった。特に享保20年1735年前後以降の、青木昆陽中心とした広範な古文書調査では、徳川幕府成立史まつわる資料調査収集への関心加わった青木中心とする書物収集事業では、単に収集するというだけでなく、家康神格化不都合な記述削除させるなど、意図的な訂正加えることを前提としていた。この時期吉宗は、綱吉編纂させた『武徳大成記』を多く誤謬を含むとして批判する一方で林家命じて史料収集させ、『御撰大坂軍記』(延享2年1745年〉)を編纂させていた。このことに見られるように、享保20年以降古文書調査徳川幕府成立史新たな叙述目指し事業一環であった吉宗また、地誌政治上の実用性高い評価与えており、収集した書籍中でも地誌大きな比率占めている。このうち中国方志では、享保6年1721年)頃から収集輸入はじまり、10年1725年)から13年1728年)に大量輸入見られたことが注目されるが、この背景にあったのは薬草見分中心とする全国産物調査であった薬草見分輸入開始されるのと前後する享保5年1720年)に開始され同年から宝暦3年1753年)まで途切れることなくなおかつ幕府領寺社領藩領別に関わりなく行われた全国的な政策であったしかしながらその事前準備段階で、調査にあたって植物名比定参考となりうる日本地誌が無いことが発見されたと考えられている。前述中国方志の輸入増加時期には、中国本草全集とも言うべき『庶物類纂』の増補作業命じられたが、その際には中国方志所載植物名と和名を比定する作業が行われていた。これらのことから、吉宗政権地誌収集は、植物見分にあたって参照すべき典拠として中国方志を利用するためのものと考えられている。注目されるのは、薬草見分遂行携わった本草学者野呂元丈が『五畿内志』の編纂終始関与していることであり、『五畿内志編纂薬草見分をその一部とする薬草政策との関連指摘されている。

※この「徳川吉宗政権の文化政策」の解説は、「五畿内志」の解説の一部です。
「徳川吉宗政権の文化政策」を含む「五畿内志」の記事については、「五畿内志」の概要を参照ください。

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