実用性
実用
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実用(じつよう)とは、実験や理論の段階ではなく、実際に使うこと、実際に役立つことの意味である。特に、普段の生活に利用可能なことを指す場合が多い。そのような状況に持ち込むことを実用化という。
実用は基礎理論の応用にあたる。例えば、物理学や化学の応用分野は工学であり、医学や農学は生物学のそれにあたると見ることもできる。実用に供するための研究、およびその分野を実学と云うことがある。
新しい理論、あるいは技術は、それまでに利用不可能であった便利さや効果を得ることを可能にすることを予想させる。しかしながら、実際にそれを可能にするためには、以下のような問題を解決しなければならない。
- 供給の安定 - それによる製品を、安価かつ安定的に生産・供給する手段を確定すること。
- 安定性 - それによって、ある程度以上の割合でその効果が得られることが保証されること。
- 安全性 - それを利用することによって、使用者に危険が及ばないこと、あるいは及ばない方法が講じられること。
理論が基礎的であればあるほど、その実用化は困難である。極端な例が電気であり、それが実用化されるためには5世紀以上を必要としている。
関連項目
実用性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:45 UTC 版)
江戸時代から、本当に剣術に対抗できるのか、存在意義はあるのか、といった論争がある。剣術は表芸であり居合は隠し芸・秘術であったという伝承があるほか、難易度の点から剣術や柔術を一定以上習得していなければ居合を習うことができなかった場合もあったと言われている(逆に「居合は剣術の根本であるから剣術よりも先に習え」と記すような伝書もある)。また一方では、剣術流儀・総合武術における単なる付属武芸(いわゆる外物・別伝)として扱われていた場合も多々ある。「身に付けないよりは身に付けておいたほうが良い」と言ったものから、「居合は近間の弓鉄砲(のように恐ろしいもの)である」といった高い評価まで各種の論が伝書類に散見されるが、自身の流儀が重んじる立場から他武芸を批判する、あるいは本末を論ずる伝書類は居合に限らず存在しているため、その点については留意する必要がある。 居合と対峙する者からすると、相手(居合術者)の抜刀前の刀身は鞘に収まった状態で相手の後方に伸びており、加えて一般的に鞘離れの直前あるいはその瞬間まで刃の軌道が読めないことから、居合の脅威は、間合(距離感)と太刀筋が読めないところにあるという見方があるほか、大刀の片手操作により、小太刀や脇差よりも離れた距離まで攻撃できるところに居合の脅威がある、という見方もある(居合が「近間の弓鉄砲」と言われる所以)。 剣術家と居合術家の対決を描いた書物については、その信憑性については定かではないものの、『撃剣叢談』(1790年刊)に記された水鴎流と堤宝山流の対決が著名である(詳細は水鴎流#撃剣叢談を参照)。この例では、剣術家が対決について「何の難きことか之あらん。抜かしめて勝つなり」と言い放っており、このように居合は刀を抜かせる、すなわち初太刀を外すことで、もはや恐るるに足らないものとするような内容を記す文献は、実際に少なくない。これは剣術家側からの視点に限らず、居合流派の伝書にも以下のように同様の記述が見られる。 元来和田氏の本意は兵法の達人にも兵法にさせずして勝を取る也(中略)兵法の上手と立合ひ、兵法の場へ遣り立てては、居合にては決して勝れずと云は正道也 —新田宮流『所存之巻』 それ故に居合は「生死を鞘離れの一瞬にかける」とも言われ、刀を抜く気配を見せず、また抜いたら一撃のもとに、剣術における両手の斬撃に勝るとも劣らない斬撃力を以って相手を倒さなければならないとされている。あるいは、先に出した『撃剣叢談』の事例を逆の観点から捉えると、むしろ「刀を抜かせなければ危ない」と考えられていたわけであり、それは居合の実用性を示す証拠ともなる。なお、「剣術家が居合と立ち合う場合は、相手(居合術家)の鯉口に切先を付けよ、刀が抜け出てくる鯉口を押さえよ」と記す剣術流派の伝書や、「柄を取られては刀は抜けなくなるから、まず柄を取られない様にせよ」と記す居合流派の伝書もあり、実戦に至っては居合に刀を抜かせまいとするような攻防も見られていたようである。 また、 先師曰、剣術を得たりとも、抜刀を不レ知ば、刀あれども持べき手なきが如し。〈中略〉譬ば、剣術は身体なり、抜刀は手足なり、其身体を捨て、手足のみにては勝べからず —『古今武芸得失論』 とされ、 居合と剣術とは本来表裏一体で一つのものだという捉え方もある。これは近世以降、武芸が専門化・細分化していくなかで、共に刀剣を扱う武術である両者の関係が見直される必要があったということができる。前述したように、剣術では木刀や竹刀を使って対人的攻防を学び、居合においては真剣の扱いを学ぶという、両者に明確な役割が与えられる場合もあった。近代以降も同様にして、中山博道を中心とする剣道界において、竹刀を使う剣道のみでは本当の刀術は学べないという考え方から、戦後紙本栄一によって「剣居一体」という言葉が提唱され、剣道人は日本刀を扱う居合を並行して学ぶべきである、とされた。 幕末の日本に滞在したデンマーク人のエドゥアルド・スエンソンは、 日本刀を完璧に扱える日本人は、刀を抜いたその動作から一気に斬りつけ、相手がその動きを一瞬の間に気づいて避けない限り、敵の頭を二つに両断することができると言われている。当然のことながらこの武器は極度に危険な物と見なされ、刀を抜きそうな素振りを見せた時にはその場で直ちにそのサムライを殺しても正当防衛と認められる。一瞬でもためらえば、自分の方が犠牲になるのは明白だからである —『江戸幕末滞在記』 と記しており、居合の技術は当時恐れられていたという。実際、生麦事件における奈良原喜左衛門らのチャールス・リチャードソンへの初太刀や追い討ちは抜き打ちであったほか、幕末の四大人斬りのうち、河上彦斎と桐野利秋の二人が居合の名手であったとされることから、居合は暗殺術としても使用されていたと言われる。また福沢諭吉の著書には、幕末当時浪人による辻斬りが横行しており、福澤自身も夜道を歩いているときに、前方から大男が殺気を放って近づいてきたときのことを いよいよとなれば兼て少し居合の心得もあるから、如何して呉れようか。〈中略〉愈よ先方が抜掛れば背に腹は換えられぬ。此方も抜て先を取らねばならん —『福翁自伝』 と、両者互いに居合の機会をうかがう探り合いの状態であったと記している(なおこの出来事は結局両者の物怖じから、すれ違いざまにお互い一目散に逃げたという笑い話になっている)。 ほかにも薩摩藩に伝わるところによると、 殊に薩摩藩士は他藩に勝れて居合の術を習ふ事の流行せしより最も辻斬の妙を極め當時薩摩の辻斬と云へば劔道を心得たる者さへ怖れたる程なり(中略)劔道手練の者と雖も歩みながら人を斬る事は非常の難事にして不意に行人を斬らんとするには己先づ立留まり軆を構へて而る後に刀を抜かざるべからず、然るに薩摩人は居合の一流として歩みながら刀を抜くことに妙を得たれば人とすれ違ひざま一刀に斬放し置き忽ち刀を納めて悠々と歩み去る故斬らるゝもの殆ど避くるの隙無く、且つ之を捕らへんとしても容易に物色し難き事情あり —『西郷隆盛一代記:繪入通俗(甲)』 とある。 このように、不意打ちとしての居合の実用性の高さを示す事例は多数見られる。
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