撃剣叢談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 16:33 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動『撃剣叢談』(げっけんそうだん)は、江戸時代後期に著された武芸書。1790年(寛政2年)、備前国岡山藩士の三上元龍著[1]。全5巻。
概要
『武術叢書』や山田次朗吉『心身収容剣道修儀』では、著者を源徳修、版行を1843年(天保14年)としているが、近年の写本研究によって、著者は三上元龍であるとされている[1]。内容は、三上元龍が1760年代~1790年代の間に見聞した剣術流派や師家についてまとめたもの[1]。伝聞の誤りも散見されるが、『本朝武芸小伝』(1716)『日本中興武術系譜略』(1767)に見られない多くの流派が記載されており、18世紀後半に多くの流派が生まれたことを示唆している[1]。
脚注
- ^ a b c d 長尾進「18世紀における剣術の変質過程に関する研究:『撃剣叢談』の分析を中心に」『明治大学人文科学研究所紀要』第45号、明治大学人文科学研究所、1999年3月、 121-133頁、 ISSN 05433894、 NAID 120001440185。
関連項目
関連書籍
- 笹間良彦 『図説日本武道辞典』 柏書房、2003年05月発行 ISBN 4760121609
撃剣叢談
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撃剣叢談の堤宝山流の項目に水鴎流についての記述がある。 「時に北国浪人三間與一左衛門と曰う者来りて居合を教授す。其門に入るもの多し。此人十六歳の時より十二社権現(国郡等詳ならず)の神木に対し二十年抜きたりしに神木終に枯れたりと云ふ。流名を水鴎と曰ひて之を弘む。作州の士人輩之に対し一の勝つ者なし。九郎兵衛に非さざば敵手ある可らずと衆人の勤めに任せ勝負を試むること已に定まる。門人之を危み、窺に問うて曰く「諸国の剣客彼れに及ぶ者なしと聞く。知らず、先生何の術を以て之に勝つや」と。九郎兵衛曰く「何の難きことか之あらん。抜かしめて勝つなり」と。三間之を聞き「浅田は聞く所に違はざる名手なり、其一言を以て勝負を知る。我が及ぶ所に非ず」と。終に技を較せずと云ふ。」と記されている。水鴎流のWEBサイトによると伝承には廻国の途次、津山に逗留、教示したとあるが浅田との試合のことは伝わっていないという。
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