撃剣世話掛
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警視局(庁)は剣術(撃剣)を巡査の必修科目とし、指導者の採用審査を当時の剣術界の権威者榊原鍵吉に委嘱した。1879年(明治12年)、榊原の審査を経て、梶川義正、上田馬之助、逸見宗助が最初の撃剣世話掛に採用された。明治16年までに真貝忠篤、下江秀太郎、得能関四郎、三橋鑑一郎、阪部大作、柿本清吉、兼松直廉等の剣客が採用され、これらの剣客によって警視流撃剣の形が制定される。 1885年(明治18年)に警視庁が弥生神社で開いた撃剣大会は、剣術史上初の全国大会となった。翌1885年(明治18年)、第5代警視総監に就任した三島通庸は武術を振興し、三島が在任中に死去するまでの2年10か月間に警視庁武術は大きく飛躍した。他府県の剣客(高山峰三郎、奥村左近太等)や宮内省済寧館の剣客との試合、天覧兜割り試合への出場等、警視庁剣術の黄金時代であったといわれる。 警視庁の剣術稽古は立ち切り稽古など非常に荒いことで知られ、警視庁の朝稽古に参加して無事に朝飯を食べて帰れたら一人前であるといわれていた。稽古が終わる頃には数えるほどの人物しか残っていなかった。 当時撃剣世話掛の若手であった高野佐三郎、高橋赳太郎、川崎善三郎、内藤高治、門奈正らは大正から昭和初期の剣道界に大きな影響力を持った。
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