上京修行
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1928年(昭和3年)、中山博道の道場有信館に入門。同時に警視庁警察書記となり、芝高輪署剣道助教を務める。練習試合で18人抜きを記録し、警視庁監察官方面試合に三将として出場し、団体優勝した。 また、市ヶ谷の近藤滋弥男爵の道場猶勝堂および三菱道場朝稽古で居合を研鑽する。
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上京修行
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明治16年(1883年)4月に上京し、下谷車坂の榊原鍵吉道場を中心に1年間修行する。翌年から日本各地への回国修行を開始し、山籠もりするなど苦行を積んだ。東京へ戻ると警視庁撃剣世話掛の川崎善三郎、高野佐三郎らに試合を挑み、連勝した。 明治21年(1888年)5月9日、自身も警視庁に一等巡査として任官し、下江秀太郎の斡旋で東武館の同門である門奈正と同じ警察署に配属された。この頃、内藤を頼って上京してきた甥の市毛谷に大相撲力士になることを勧め、反対する親族を説得して入門させた。谷は常陸山谷右エ門の四股名で横綱まで昇進する。 明治27年(1894年)、日清戦争が勃発。警視庁は居留民保護のため撃剣世話掛に朝鮮出張を命じ、内藤、門奈も朝鮮に赴いた。内藤は神戸を出帆する際「かねてより思ひ込めにし武士(もののふ)の弓矢心を今日や晴らさん」と詠んだが、現地で急性肋膜炎を発症して帰国した。 明治30年(1897年)、大日本武徳会から精錬証を授与される。 警視庁勤務の傍ら牛込原町に道場「養真館」を開き、東京専門学校(現早稲田大学)の撃剣部師範を務めた。
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