上京後とは? わかりやすく解説

上京後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:02 UTC 版)

平直行」の記事における「上京後」の解説

高校卒業後に上京した平は顔面へのパンチをもっと覚えることと体大きくすることを目的としてボクシングボディビルジム通った。実はプロレスラー志望しており、体を大きくするために池袋駅東口3階にあった賄2食付き喫茶店で朝8時から夕方4時までアルバイト行った周囲プロレスラー志望であることを公言していたため、賄には経費かかったが皆応援して山食べさせてくれた。朝からモーニングを3人前食しランチ準備終わったらすぐできあがったランチ食べランチタイム終わったらまた食べ、と後年申し訳ない」と振り返るほど食べた。もちろん食べるだけなく、物凄く繁盛して忙しい店でしっかりと働いて恩を返した上京直後から始めた喫茶店アルバイトでは、遅番務めチーフコックが来るまで平を含めてアルバイト3人で回していた。そのため平は初日から料理担当するなどしていたが自由な社風の中で働き半年もすると店のメニュー全部作れようになった全体の流れ知りながら無駄な動き省きつつ絶え間なく動くことは格闘技通ずるものであり、平はこれが役立った後年振り返っている。 修斗ではデビュー前ムエタイ式の蹴り覚えようとしたがなかなか上手くいかなかった。空手シュートボクシングでは微妙に技術が違うことを体に覚えさせられないままデビュー戦迎え、平は空手スタイル行こう考えた。平は東の教え活かしてどんどん前に出てダウン奪いデビュー戦勝利した。その試合運びから平は当時「プッツンファイター」の異名取った1984年成人式東京迎えた頃、夢が叶わなくなったどうしようかと焦りそれまで7時までであった練習加え7時休憩取ってからプロテイン飲んで9時までさらに練習するようにした。そのため、この頃の平は流行りテレビ番組を見る暇もなかった。それから半年後、1984年秋にスーパータイガージムインストラクターとして採用された。その際アルバイトをやめてそれまで住んでいた飯アパート引き払い一緒に働いていた元暴走族アルバイトその人物の仲間仲良くなり、引っ越すときには当時住んでいた飯から三軒茶屋まで改造車送ってもらったインストラクターになる前に3ヶ月テスト期間設けられボクシングボディビルジムでの練習終わった後で練習行った。その練習終えて食事取って寝るころには午前2時になっていた。午前8時からのアルバイトであったが、頑張っている平を見てアルバイト仲間達上手く都合をつけて午前11時から出勤すれば良いようにした。しかし勤務時間が減ると1人暮らし必要なアルバイト代を稼げなくなるので、遅番従業員休憩時間ずらして勤務時間確保した。これも、アルバイト仲間協力よる。インストラクターテストではいきなりスパーリングを行う(当時は技は見よう見まね習得するものであった)というものであり、タップ怠った平は肘を痛めた。肘が外れたが、翌日もその肘でアルバイト出勤しテーピング固定しながら不安定な肘を使ってディッシャー片手アイスクリーム用意した北原辰巳北原光騎)、中村頼永USA修斗代表)らとスーパータイガージムインストラクター務め、プリシューティング選手権では優勝

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 04:49 UTC 版)

井波他次郎」の記事における「上京後」の解説

明治30年代後半一家上京し私立甲津学舎等の教師家庭教師として生計立てた1919年大正8年実兄5代木越右衛門正保死去すると、自身長女養女出していた関係で6代木越右衛門正道名乗ったが、家業鋳物師は兄の代で廃されており、自身従事しなかった。後に弟に名跡譲渡依頼されたが、これを断った二・二六事件勃発同日1936年昭和11年2月26日東京市江戸川区小岩町自宅病没した。墓所中野区沼袋明治寺密蔵院墓地戒名は素光院鏡月正道居士

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木村荘平」の記事における「上京後」の解説

1878年明治11年)、内務卿大久保利通懐刀呼ばれた薩摩藩出身東京警視庁大警視(のちの警視総監)の川路利良呼ばれ屠場食肉市場調査依頼された。東京府内の屠場明治9年警察庁管轄となっており、明治10年には浅草千束官営屠場1か所に統合されていたが、近隣住民抗議整備費用が問題となっていた。また、同年より官営三田育種場牛・馬・羊・豚の飼育のほか、馬匹改良目的競馬会行なっていた。官営屠場明治13年に荘平らに年賦払い下げられ同年荘平は興農競馬会社設立した。荘平経営屠場明治16年芝浜移転し食用牛の屠殺場豊盛共同屠場」となり、明治20年には白金屠場買収したが、同年末に東京家畜会社売却した明治13年から牛鍋チェーン店「いろは」を経営芝区三田四国町(現在の港区3丁目)の一号店第一いろは)をはじめとして東京市22箇所にのぼる支店それぞれ妾を配置して店の経営にあたらせた。傍ら東京府15区6郡の肉問屋糾合して東京諸畜売肉商組合結成すると共に1887年明治20年)には東京家畜市場会社理事就任同年日暮里村火葬場運営請け負う東京博善会社設立理事経て社長となる。さらに同年日本麦酒醸造会社設立し社長に就任明治26年岩谷松平竹中久次とともに白金田中町屠場(旧千束屠場)を合併し、「日本家畜市場会社」を設立また、ほかにも東京本芝鉱泉株式会社経営同社温泉旅館芝浜館」と料亭芝浦館」は、芝浦埋め立て以前リゾート施設として成功した。 いろは合名会社業務担当社員東京家畜市場会社理事東京諸畜売肉商(肉卸問屋組合頭取東京博善株式会社取締役社長東京本芝鉱泉株式会社温泉つき割烹旅館社長日本麦酒醸造会社ヱビスビール社長東京商業会議所議員日本商家同志会顧問などをつとめた政治的に星亨派閥属し1896年明治29年)、東京市会議員当選東京府会議員から衆議院進出計画していた矢先1906年明治39年4月27日に顎癌で死去享年67

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 15:25 UTC 版)

藤井達吉」の記事における「上京後」の解説

1910年明治43年)頃には家族とともに東京市の上桜木町住み明治末期から大正時代にかけての時期には、吾楽会、フュウザン会装飾美術協会日本美術協会、无型など前衛的なグループ参加し七宝焼日本画陶芸金工竹工漆工刺繍染色和紙、書、和歌など工芸あらゆる分野で古い型にとらわれない斬新な作風注目された。藤井活動工芸品大衆化意図したものであり、後の七宝製作のブーム実質的な先駆者だったと評価されている。 1911年明治44年)頃には東京市渋谷宮益坂住み、吾楽会の会員となった1912年明治45年)にはヒュウザン会創立会員となり、また国民美術協会創立会員となった河合卯之助とともに軽井沢滞在し三笠ホテル壁画制作した1913年大正2年)には父親の忠三郎死去し東京二本榎西町転居した。1914年大正3年)には長田幹彦小説『霧』装丁木版画製作した1916年大正5年)頃には原三渓のために仕事をした。 1919年大正8年)には東京市外大井町庚塚現・東京都品川区)に転居高村豊周岡田三郎助長原孝太郎とともに装飾美術協会結成した1920年大正9年)には高村光太郎琅玕堂で初め個展開催した1921年大正10年)には第8回日本美術院展覧会入選し院友推挙された。1921年には雑誌主婦之友』に手芸製作法連載を開始し、1923年大正12年)には主婦之友社から『家庭手芸品の製作法』が刊行された。同年9月1日関東大震災後には白木屋呉服店図案部の顧問となった1926年大正15年)には主婦之友社から『素人のための手図案描き方』が刊行された。 1926年大正15年)には工芸団体「无型」の創立参加し工芸雑誌工芸時代』の創刊協力した1927年昭和2年)には主婦之友社から『家庭出来手芸品製作法全集』が刊行された。1929年昭和4年)に帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)が設立されると、図案工芸科教授就任した同年には東京手芸染色協会から『家庭染色手芸法』が刊行された。1930年昭和5年)には博文館から『美術工芸の手ほどき』が刊行された。同年には中部日本工芸会を発足させた。1932年昭和7年以後には愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市)で和紙工芸指導行っている。1933年昭和8年)には文雅堂から『藤井達吉創作染色図案集』が刊行された。 昭和初期藤井作品文人画性格強まり平安時代継紙現代蘇らせるなどして、独自の工夫で「継色紙蓋物」などの製作を行った1935年昭和10年)には東京市外大井町から神奈川県足柄下郡真鶴町転居した。1937年昭和12年)には真鶴町工房新築している。57歳だった1938年昭和13年)には帝国美術学校教授辞職した

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上京後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 08:40 UTC 版)

永山則夫」の記事における「上京後」の解説

1965年3月板柳から東京集団就職する。就職先渋谷の高級果物店だった。身長が160cmほどと小柄な体格で目が大きいため性別に関係なくかわいがられ北海道育ちのため言葉訛りが(他の東北出身者比べて少なく果物店では接客要領よくこなしていた。同店の当時常連客には女優岩下志麻もいた。やがて新規店を先輩二人で任されるほどの信用を得る。しかし、青森次の就職勧誘出向いた上司板柳時代窃盗の話を聞かされその後別の上司永山にそれをほのめかす発言をしたことで、解雇される思い込み、わずか半年退職した。この果物店に勤めていたころ、1965年7月29日には勤務先近く渋谷区内)で発生した少年ライフル魔事件目撃している。果物店を退職後、荻窪にいた三番目の兄を頼って一泊するも、それ以上いることは許されずに絶望する。「南の島行こう」と横浜港からデンマーク貨物船乗り込んで密航したが、寄港地香港下ろされ日本送還された。栃木県小山市住んでいた長兄引き取られ宇都宮市自動車板金工場で働く。上京以来被害妄想とりつかれて孤立する一方自分見下しながらまったく話しかけもしない長兄態度怨み抱き、「当てつけ」として市内肉屋窃盗働き捕まった同年11月10日には宇都宮少年鑑別所収容されたが、同月2日には宇都宮家庭裁判所少年審判で不処分になった1966年早々に永山長兄の元を飛び出し大阪までヒッチハイク移動した宇都宮出て最初に勤めた大阪府守口市米屋では、雇用主の命で戸籍謄本取り寄せた際、本籍に「北海道網走市呼人無番地」との記載があり、当時有名だった映画の『網走番外地シリーズから、自分は「網走刑務所生まれ」だと誤解し周囲がそれを冷やかした自分辞めさせようとしていると思い込んだ雇用主の子息が東京大学受験下見をすると自分身辺調査向かった違いない思い込み、店に来た公認会計士をやはり調査に来た弁護士だと考えた4月新人入りそうになると、一方的に退職した池袋喫茶店東京国際空港羽田空港)の喫茶店と移るが、いずれも周囲の状況から自分不利になったと速断し、逃げるように退職している(後者は同じ職場板柳出身者がいると知っただけでやめた)。手首切って自殺を図るが果たせず、その数日後1966年9月6日アメリカ海軍横須賀基地侵入して基地内で窃盗働いたところを憲兵 (MP) に発見され横須賀警察署神奈川県警察)に刑事特別法違反窃盗罪逮捕された。逮捕後には横浜少年鑑別所身柄移されたが、同室者からリンチを受ける。 逮捕から1か月半後、10月21日横浜家庭裁判所横須賀支部開かれた審判により試験観察処分受けた審判の際には、関わることを拒否した長兄に代わって次兄訪れ、母も上京して同席した次兄当時池袋在住)の「困ったらいつでも来い」という言葉と母の上京に刺激受けた永山は、定時制高校への進学決意新宿区淀橋牛乳配達店で働きながら勉学し、1967年4月明治大学付属中野高等学校夜間部入学する入学後学業にも仕事にも熱心に取り組み最初中間試験79人中13位の成績で、演劇部にも所属した。しかし、睡眠時間削っての生活による疲労加え保護観察官勤務先訪れたことで「前科者露見する」という被害感情募らせ6月下旬に店を辞めてしまう。高校は「保証人連絡付かない」という理由8月除籍処分となったこの後横浜港沖仲仕仕事に3か月就く。続いていくつかの職を転々とし、自衛隊にも応募した基地侵入犯歴により受験できなかった。永山再度定時制高校に通う意思持ち1967年10月下旬から池近く牛乳配達店に勤めた。だが、1968年正月明け電気ポットスイッチを切り忘れて店の畳を焦がしたことで「店にいられない」と考え、「日本から逃げる」「横浜は顔を知られている」という理由神戸港からフランス籍の船に乗って二度目密航企てる失敗船内手首切って自殺図ったが、横浜戻される横浜東京少年鑑別所での収容経て2月再度保護観察処分となった次兄今度引き取り出向かず、代わりに訪れた三番目の兄に励ましを受け、杉並区西荻牛乳店で働きながら、同年4月明大付属中野高校再入学し、クラス委員長選ばれる。ここでも学業と仕事は熱心だったものの、「辞めさせて貶めるためにわざと委員長選んだ」という根拠のない疑い抱き相談しようとした三兄が不在だったことで、5月7日配達中の牛乳放置して売上金持ったまま失踪し板柳実家戻ったこうした行動繰り返しについて、射殺事件一審公判中に永山精神鑑定おこなった石川義博は、努力には保護者存在からの愛情賞賛尊重などが伴わなければ永続しない指摘し永山場合はそうした裏付けのないまま「自分変えたい」という無理な努力であり、心身疲労蓄積対人関係障害攻撃衝動高め、「弱み突かれる等の強い情動刺激」に接すると自己否定されたと感じて逃避し事件起こすという悪循環陥った述べている。 帰郷した永山に母は厳しく毎日叱責繰り返した永山地元高校定時制への進学希望したが、高校にも中学3年生時の担任にも断られた。永山実家に引きこもった後、母から金を借りて再度上京した6月から再び横浜港沖仲仕となる。過去職歴から当初は「常備」と呼ばれる常勤に近い待遇与えられた。稼ぎ多く次兄通して入院費用」が必要だという長兄への仕送り回した実際に長兄詐欺働いており、逃走資金使われた)。だが、8月に体の不調から無断欠勤して所属会社抜け以後「アンコ」呼ばれる日雇い仕事しかなくなる。同じころ、時折寝泊まりしていた次兄の家で、次兄から「もう来るな」と言われ以降路上生活に近い境遇となった

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