上京後
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高校卒業後に上京した平は顔面へのパンチをもっと覚えることと体を大きくすることを目的としてボクシングとボディビルのジムに通った。実はプロレスラーを志望しており、体を大きくするために池袋駅東口3階にあった賄2食付きの喫茶店で朝8時から夕方4時までアルバイトを行った。周囲にプロレスラー志望であることを公言していたため、賄には経費がかかったが皆応援して沢山食べさせてくれた。朝からモーニングを3人前食し、ランチの準備が終わったらすぐできあがったランチを食べ、ランチタイムが終わったらまた食べ、と後年「申し訳ない」と振り返るほど食べた。もちろん食べるだけなく、物凄く繁盛して忙しい店でしっかりと働いて恩を返した。上京直後から始めた喫茶店のアルバイトでは、遅番を務めるチーフのコックが来るまで平を含めてアルバイト3人で回していた。そのため平は初日から料理を担当するなどしていたが自由な社風の中で働き、半年もすると店のメニュー全部を作れるようになった。全体の流れを知りながら無駄な動きを省きつつ絶え間なく動くことは格闘技に通ずるものであり、平はこれが役立ったと後年振り返っている。 修斗ではデビュー前にムエタイ式の蹴りを覚えようとしたがなかなか上手くいかなかった。空手とシュートボクシングでは微妙に技術が違うことを体に覚えさせられないままデビュー戦を迎え、平は空手スタイルで行こうと考えた。平は東の教えを活かしてどんどん前に出てダウンを奪い、デビュー戦を勝利した。その試合運びから平は当時「プッツンファイター」の異名を取った。1984年に成人式を東京で迎えた頃、夢が叶わなくなったらどうしようかと焦り、それまで夜7時までであった練習に加え、7時に休憩を取ってからプロテインを飲んで9時までさらに練習するようにした。そのため、この頃の平は流行りのテレビ番組を見る暇もなかった。それから半年後、1984年の秋に、スーパータイガージムのインストラクターとして採用された。その際アルバイトをやめてそれまで住んでいた飯田橋のアパートを引き払い、一緒に働いていた元暴走族のアルバイトやその人物の仲間と仲良くなり、引っ越すときには当時住んでいた飯田橋から三軒茶屋まで改造車で送ってもらった。インストラクターになる前に3ヶ月のテスト期間を設けられ、ボクシングとボディビルのジムでの練習が終わった後で練習を行った。その練習を終えて食事を取って寝るころには午前2時になっていた。午前8時からのアルバイトであったが、頑張っている平を見て、アルバイトの仲間達が上手く都合をつけて午前11時から出勤すれば良いようにした。しかし勤務時間が減ると1人暮らしに必要なアルバイト代を稼げなくなるので、遅番の従業員の休憩時間をずらして勤務時間を確保した。これも、アルバイト仲間の協力による。インストラクターのテストではいきなりスパーリングを行う(当時は技は見よう見まねで習得するものであった)というものであり、タップを怠った平は肘を痛めた。肘が外れたが、翌日もその肘でアルバイトに出勤し、テーピングで固定しながら不安定な肘を使ってディッシャーを片手にアイスクリームを用意した。北原辰巳(北原光騎)、中村頼永(USA修斗代表)らとスーパータイガージムでインストラクターを務め、プリシューティング選手権では優勝。
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上京後
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明治30年代後半一家で上京し、私立甲津学舎等の教師や家庭教師として生計を立てた。1919年(大正8年)実兄5代木越三右衛門正保が死去すると、自身の長女を養女に出していた関係で6代木越三右衛門正道を名乗ったが、家業の鋳物師は兄の代で廃されており、自身も従事しなかった。後に弟に名跡の譲渡を依頼されたが、これを断った。 二・二六事件勃発と同日の1936年(昭和11年)2月26日、東京市江戸川区小岩町の自宅で病没した。墓所は中野区沼袋明治寺密蔵院墓地。戒名は素光院鏡月正道居士。
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上京後
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1878年(明治11年)、内務卿・大久保利通の懐刀と呼ばれた薩摩藩出身の東京警視庁大警視(のちの警視総監)の川路利良に呼ばれ、屠場や食肉市場の調査を依頼された。東京府内の屠場は明治9年に警察庁の管轄となっており、明治10年には浅草千束の官営屠場1か所に統合されていたが、近隣住民の抗議や整備費用が問題となっていた。また、同年より官営の三田育種場で牛・馬・羊・豚の飼育のほか、馬匹改良を目的に競馬会を行なっていた。官営屠場は明治13年に荘平らに年賦で払い下げられ、同年荘平は興農競馬会社も設立した。荘平経営の屠場は明治16年に芝浜に移転し、食用牛の屠殺場「豊盛社共同屠場」となり、明治20年には白金の屠場も買収したが、同年末に東京家畜会社に売却した。 明治13年から牛鍋チェーン店「いろは」を経営。芝区三田四国町(現在の港区芝3丁目)の一号店(第一いろは)をはじめとして、東京市内22箇所にのぼる支店にそれぞれ妾を配置して各店の経営にあたらせた。傍ら、東京府下15区6郡の肉問屋を糾合して東京諸畜売肉商組合を結成すると共に、1887年(明治20年)には東京家畜市場会社の理事に就任。 同年、日暮里村の火葬場運営を請け負う東京博善会社を設立。理事を経て社長となる。さらに同年、日本麦酒醸造会社を設立し、社長に就任。明治26年、岩谷松平、竹中久次とともに、白金と田中町屠場(旧千束屠場)を合併し、「日本家畜市場会社」を設立。また、ほかにも東京本芝浦鉱泉株式会社を経営、同社の温泉付旅館「芝浜館」と料亭「芝浦館」は、芝浦埋め立て以前のリゾート施設として成功した。 いろは合名会社業務担当社員、東京家畜市場会社理事、東京諸畜売肉商(肉卸問屋)組合頭取、東京博善株式会社取締役社長、東京本芝浦鉱泉株式会社(温泉つき割烹旅館)社長、日本麦酒醸造会社(ヱビスビール)社長、東京商業会議所議員、日本商家同志会顧問などをつとめた。 政治的には星亨の派閥に属し、1896年(明治29年)、東京市会議員に当選。東京府会議員から衆議院進出を計画していた矢先、1906年(明治39年)4月27日に顎癌で死去。享年67。
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上京後
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1910年(明治43年)頃には家族とともに東京市の上野桜木町に住み。明治末期から大正時代にかけての時期には、吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型など前衛的なグループに参加し、七宝焼、日本画、陶芸、金工、竹工、漆工、刺繍、染色、和紙、書、和歌など工芸のあらゆる分野で古い型にとらわれない斬新な作風で注目された。藤井の活動は工芸品の大衆化を意図したものであり、後の七宝製作のブームの実質的な先駆者だったと評価されている。 1911年(明治44年)頃には東京市の渋谷宮益坂に住み、吾楽会の会員となった。1912年(明治45年)にはヒュウザン会の創立会員となり、また国民美術協会の創立会員となった。河合卯之助らとともに軽井沢に滞在し、三笠ホテルの壁画を制作した。1913年(大正2年)には父親の忠三郎が死去し、東京の芝二本榎西町に転居した。1914年(大正3年)には長田幹彦の小説『霧』の装丁と木版画を製作した。1916年(大正5年)頃には原三渓のために仕事をした。 1919年(大正8年)には東京市の外大井町庚塚(現・東京都品川区)に転居。高村豊周・岡田三郎助・長原孝太郎らとともに装飾美術家協会を結成した。1920年(大正9年)には高村光太郎の琅玕堂で初めて個展を開催した。1921年(大正10年)には第8回日本美術院展覧会で入選し、院友に推挙された。1921年には雑誌『主婦之友』に手芸製作法の連載を開始し、1923年(大正12年)には主婦之友社から『家庭手芸品の製作法』が刊行された。同年9月1日の関東大震災後には白木屋呉服店図案部の顧問となった。1926年(大正15年)には主婦之友社から『素人のための手芸図案の描き方』が刊行された。 1926年(大正15年)には工芸団体「无型」の創立に参加し、工芸雑誌『工芸時代』の創刊に協力した。1927年(昭和2年)には主婦之友社から『家庭で出来る手芸品製作法全集』が刊行された。1929年(昭和4年)に帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)が設立されると、図案工芸科の教授に就任した。同年には東京手芸染色協会から『家庭染色手芸法』が刊行された。1930年(昭和5年)には博文館から『美術工芸の手ほどき』が刊行された。同年には中部日本工芸会を発足させた。1932年(昭和7年)以後には愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市)で和紙工芸の指導を行っている。1933年(昭和8年)には文雅堂から『藤井達吉創作染色図案集』が刊行された。 昭和初期の藤井の作品は文人画的性格が強まり、平安時代の継紙を現代に蘇らせるなどして、独自の工夫で「継色紙風蓋物」などの製作を行った。1935年(昭和10年)には東京市外大井町から神奈川県足柄下郡真鶴町に転居した。1937年(昭和12年)には真鶴町に工房を新築している。57歳だった1938年(昭和13年)には帝国美術学校教授を辞職した。
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上京後
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1965年3月、板柳から東京に集団就職する。就職先は渋谷の高級果物店だった。身長が160cmほどと小柄な体格で目が大きいため性別に関係なくかわいがられ、北海道育ちのため言葉の訛りが(他の東北出身者に比べて)少なく、果物店では接客を要領よくこなしていた。同店の当時の常連客には女優の岩下志麻もいた。やがて新規店を先輩と二人で任されるほどの信用を得る。しかし、青森に次の就職勧誘に出向いた上司が板柳時代の窃盗の話を聞かされ、その後別の上司が永山にそれをほのめかす発言をしたことで、解雇されると思い込み、わずか半年で退職した。この果物店に勤めていたころ、1965年7月29日には勤務先の近く(渋谷区内)で発生した少年ライフル魔事件を目撃している。果物店を退職後、荻窪にいた三番目の兄を頼って一泊するも、それ以上いることは許されずに絶望する。「南の島に行こう」と横浜港からデンマークの貨物船に乗り込んで密航したが、寄港地の香港で下ろされて日本に送還された。栃木県小山市に住んでいた長兄に引き取られ、宇都宮市の自動車の板金工場で働く。上京以来被害妄想にとりつかれて孤立する一方、自分を見下しながらまったく話しかけもしない長兄の態度に怨みを抱き、「当てつけ」として市内の肉屋で窃盗を働き捕まった。同年11月10日には宇都宮少年鑑別所へ収容されたが、同月2日には宇都宮家庭裁判所の少年審判で不処分になった。1966年早々に永山は長兄の元を飛び出し、大阪までヒッチハイクで移動した。 宇都宮を出て最初に勤めた大阪府守口市の米屋では、雇用主の命で戸籍謄本を取り寄せた際、本籍の欄に「北海道網走市呼人無番地」との記載があり、当時有名だった映画の『網走番外地』シリーズから、自分は「網走刑務所生まれ」だと誤解し、周囲がそれを冷やかしたり自分を辞めさせようとしていると思い込んだ。雇用主の子息が東京の大学で受験の下見をすると自分の身辺調査に向かったに違いないと思い込み、店に来た公認会計士をやはり調査に来た弁護士だと考えた。4月に新人が入りそうになると、一方的に退職した。池袋の喫茶店、東京国際空港(羽田空港)の喫茶店と移るが、いずれも周囲の状況から自分が不利になったと速断し、逃げるように退職している(後者は同じ職場に板柳出身者がいると知っただけでやめた)。手首を切って自殺を図るが果たせず、その数日後の1966年9月6日にアメリカ海軍横須賀基地に侵入して基地内で窃盗を働いたところを憲兵 (MP) に発見され、横須賀警察署(神奈川県警察)に刑事特別法違反・窃盗罪で逮捕された。逮捕後には横浜少年鑑別所へ身柄を移されたが、同室者からリンチを受ける。 逮捕から1か月半後、10月21日に横浜家庭裁判所横須賀支部で開かれた審判により試験観察処分を受けた。審判の際には、関わることを拒否した長兄に代わって次兄が訪れ、母も上京して同席した。次兄(当時池袋在住)の「困ったらいつでも来い」という言葉と母の上京に刺激を受けた永山は、定時制高校への進学を決意、新宿区淀橋の牛乳配達店で働きながら勉学し、1967年4月、明治大学付属中野高等学校の夜間部に入学する。入学後は学業にも仕事にも熱心に取り組み、最初の中間試験は79人中13位の成績で、演劇部にも所属した。しかし、睡眠時間を削っての生活による疲労に加え、保護観察官が勤務先に訪れたことで「前科者と露見する」という被害感情を募らせ、6月下旬に店を辞めてしまう。高校は「保証人と連絡が付かない」という理由で8月に除籍処分となった。 この後、横浜港で沖仲仕の仕事に3か月就く。続いていくつかの職を転々とし、自衛隊にも応募したが基地侵入の犯歴により受験できなかった。永山は再度定時制高校に通う意思を持ち、1967年10月下旬から池袋近くの牛乳配達店に勤めた。だが、1968年の正月明けに電気ポットのスイッチを切り忘れて店の畳を焦がしたことで「店にいられない」と考え、「日本から逃げる」「横浜は顔を知られている」という理由で神戸港からフランス籍の船に乗って二度目の密航を企てるも失敗、船内で手首を切って自殺を図ったが、横浜に戻される。横浜と東京の少年鑑別所での収容を経て、2月に再度の保護観察処分となった。次兄も今度は引き取りに出向かず、代わりに訪れた三番目の兄に励ましを受け、杉並区西荻の牛乳店で働きながら、同年4月、明大付属中野高校に再入学し、クラス委員長に選ばれる。ここでも学業と仕事は熱心だったものの、「辞めさせて貶めるためにわざと委員長に選んだ」という根拠のない疑いを抱き、相談しようとした三兄が不在だったことで、5月7日に配達中の牛乳を放置して売上金を持ったまま失踪し、板柳の実家に戻った。こうした行動の繰り返しについて、射殺事件の一審公判中に永山の精神鑑定をおこなった石川義博は、努力には保護者的存在からの愛情や賞賛、尊重などが伴わなければ永続しないと指摘し、永山の場合はそうした裏付けのないまま「自分を変えたい」という無理な努力であり、心身の疲労の蓄積と対人関係の障害が攻撃衝動を高め、「弱みを突かれる等の強い情動刺激」に接すると自己が否定されたと感じて逃避し、事件を起こすという悪循環に陥ったと述べている。 帰郷した永山に母は厳しく、毎日叱責を繰り返した。永山は地元高校の定時制への進学を希望したが、高校にも中学3年生時の担任にも断られた。永山は実家に引きこもった後、母から金を借りて再度上京した。6月から再び横浜港で沖仲仕となる。過去の職歴から当初は「常備」と呼ばれる常勤に近い待遇を与えられた。稼ぎの多くを次兄を通して「入院費用」が必要だという長兄への仕送りに回した(実際には長兄は詐欺を働いており、逃走資金に使われた)。だが、8月に体の不調から無断欠勤して所属会社を抜け、以後は「アンコ」と呼ばれる日雇いの仕事しかなくなる。同じころ、時折寝泊まりしていた次兄の家で、次兄から「もう来るな」と言われ、以降は路上生活に近い境遇となった。
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