上京朝貢の停止
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宝亀5年1月20日(774年3月7日)、蝦夷(えみし)の上京朝貢が突然停止された。同年の正月儀礼に参列するための蝦夷の入朝はあったが、実際に入朝したのは出羽の蝦夷のみであり、元日朝賀への参列はおこなわれず、同年1月16日(774年3月3日)に朝堂で出羽の蝦夷・俘囚に対する饗宴や叙位・賜禄の儀のみであった。 蝦夷の上京朝貢は、神護景雲3年より再開されており、陸奥国すべての蝦夷族長の上に君臨していた道嶋氏の持つ族長権を象徴する儀礼としての一面を持っていた。称徳天皇・道鏡政権が崩壊したあと、光仁天皇政権となった宝亀2年以降も上京朝貢は記録されていた。
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上京朝貢の停止
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「日本の古代東北経営」の記事における「上京朝貢の停止」の解説
宝亀5年1月16日(774年3月3日)、上京した出羽の蝦夷・俘囚に対して朝堂で饗宴や叙位、賜禄の儀がおこなわれた。しかし21日(8日)に蝦夷・俘囚の上京朝貢が唐突に停止されている。 上京朝貢の停止について樋口知志は、おそらく光仁天皇の意より出たものであったろうとし、天皇の意を奉じた鎮守将軍大伴駿河麻呂が鎮守府軍政機構の頂点に立つと陸奥の蝦夷たちの上京朝貢をおこなわせない方針を固めたものではないかと指摘している。また、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に鷹の飼育や鷹狩の規制が行われて奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある[誰によって?]。
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