桃生城襲撃事件とは? わかりやすく解説

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桃生城襲撃事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/31 08:22 UTC 版)

桃生城襲撃事件(ものうのきしゅうげきじけん / ものうじょうしゅうげきじけん)は、奈良時代宝亀5年7月25日ユリウス暦774年9月5日)、古代日本の律令国家朝廷)が陸奥国桃生郡(現・宮城県石巻市)に築いた城柵である桃生城を、反乱を起こした海道蝦夷[注 1]が襲撃した事件。いわゆる三十八年騒乱の発端となった。ここでは「遠山村征討戦」についても記述する。




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桃生城襲撃事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「桃生城襲撃事件」の解説

詳細は「桃生城襲撃事件」を参照 宝亀5年1月21日774年3月8日)の蝦夷の上京朝貢停止から半年後の宝亀5年7月頃、海道地方蝦夷らの間で騒擾態となった。陸奥按察使兼守鎮守将軍大伴駿河麻呂はこの事態対処するために都に奏状呈し征夷是非について光仁天皇に敕断を求めると、光仁天皇人民慮って征討軍を興すべきではないと指示出した。しかし駿河麻呂二度目奏状で「蝦狄野心改めず、しばしば辺境侵して、あえて王命拒むと」報じて征夷強く訴えたため、光仁天皇征夷やむなし判断して宝亀5年7月23日774年9月3日)に征夷決行許可命じる。 その2日後の宝亀5年7月25日774年9月5日)、駿河麻呂海道蝦夷叛徒焼き道を塞いで往来絶ち桃生城襲撃し西郭破ったため、軍勢興して討伐あたったことを報じる陸奥国解を都へと送った(桃生城襲撃事件)。平城京から多賀城までの飛駅片道7日程度要するため、7月23日出され征夷勅許7月25日時点陸奥国には届いていなかった。 桃生城襲撃の報を受けた中央政府宝亀5年8月2日774年9月12日)、坂東の8国に対して陸奥国から急を告げてきた場合には直ち援兵派遣できるよう、500人から2000人の軍兵集めて待機させておくよう命じた宝亀5年8月24日774年10月4日)、駿河麻呂から「や鼠などが悪さをした程度小事件にすぎず、しばしば侵掠はあるものの大した害はなく、草木繁茂する時期征夷をするのは得策ではない」との理由征夷中止進言する奏状光仁天皇の許に届けられる光仁天皇駿河麻呂から征夷実施申請してきたにもかかわらず征夷中止求めてきたことに激怒して即日駿河麻呂譴責する勅を下した

※この「桃生城襲撃事件」の解説は、「日本の古代東北経営」の解説の一部です。
「桃生城襲撃事件」を含む「日本の古代東北経営」の記事については、「日本の古代東北経営」の概要を参照ください。

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