桃生城襲撃事件
桃生城襲撃事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)
「日本の古代東北経営」の記事における「桃生城襲撃事件」の解説
詳細は「桃生城襲撃事件」を参照 宝亀5年1月21日(774年3月8日)の蝦夷の上京朝貢の停止から半年後の宝亀5年7月頃、海道地方の蝦夷らの間で騒擾状態となった。陸奥按察使兼守鎮守将軍大伴駿河麻呂はこの事態に対処するために都に奏状を呈し征夷の是非について光仁天皇に敕断を求めると、光仁天皇は人民を慮って征討軍を興すべきではないと指示を出した。しかし駿河麻呂は二度目の奏状で「蝦狄が野心を改めず、しばしば辺境を侵して、あえて王命を拒むと」報じて征夷を強く訴えたため、光仁天皇は征夷もやむなしと判断して宝亀5年7月23日(774年9月3日)に征夷決行の許可を命じる。 その2日後の宝亀5年7月25日(774年9月5日)、駿河麻呂は海道蝦夷の叛徒が橋を焼き道を塞いで往来を絶ち、桃生城を襲撃して西郭を破ったため、軍勢を興して討伐にあたったことを報じる陸奥国解を都へと送った(桃生城襲撃事件)。平城京から多賀城までの飛駅は片道7日程度を要するため、7月23日に出された征夷の勅許は7月25日の時点で陸奥国には届いていなかった。 桃生城襲撃の報を受けた中央政府は宝亀5年8月2日(774年9月12日)、坂東の8国に対して陸奥国から急を告げてきた場合には直ちに援兵を派遣できるよう、500人から2000人の軍兵を集めて待機させておくよう命じた。 宝亀5年8月24日(774年10月4日)、駿河麻呂から「犬や鼠などが悪さをした程度の小事件にすぎず、しばしば侵掠はあるものの大した害はなく、草木が繁茂する時期に征夷をするのは得策ではない」との理由で征夷の中止を進言する奏状が光仁天皇の許に届けられる。光仁天皇は駿河麻呂から征夷の実施を申請してきたにもかかわらず、征夷の中止を求めてきたことに激怒して、即日、駿河麻呂を譴責する勅を下した。
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